漂えど、沈まず。

文化系税理士 佐藤 龍 のブログです

「今は体の半分なくなったよう」 妻を失った吉田秀和の悲しみ

大事な人を失った悲しみ。

その悲しみの大きさは、その人にしかわかりません。

 

 音楽評論家の吉田秀和さん(90)が、このところ休筆を続けている。本紙「音楽展望」のファンには気になるところだが、昨年11月に妻のバルバラさんを亡くし、「心の空白」を埋められないという。鎌倉で静かな日々を送る吉田さんを訪ね、50年以上続けた執筆活動を中断するに至った思いを聞いた。 (上坂樹)

 

「音楽展望」休みます 吉田秀和
 妻と出会ったのは、1953年暮れから翌年11月まで、私が初めて欧米への旅に出たその途上だった。
 30代の終わりで、僕はせっせと翻訳に励んで旅費を用意した。この旅でバイロイト音楽祭ザルツブルク音楽祭、さらにダルムシュタットやドナウエッシングンの現代音楽祭などもつぶさに体験できた。第2次世界大戦後の復興機運の中で、雨後のタケノコのように音楽祭が生まれていたけど、ヨーロッパの上質な音楽を集中的に吸収できたことは、その後の評論人生の決定的起点になったと思う。
 当時妻はハンブルク大学の学生で中国文学を専攻していたが、当時のドイツと中国が国交がなかったため文部省招待の留学生として日本へ来て、私と再会した。
 彼女はその後、ドイツ大使館の文化部に勤め、中国留学の機会をうかがっていたが、そのうちに東京にドイツ文化研究所が新設されたので、副所長になって活動の幅を広げていった。

 中国文学専攻で漢字から勉強を始めたので、日本語を読む上で随分役に立ったようだ。私と結婚した後も日本の近現代文学への傾倒がさらに深まり、僕も色々尋ねられるので、調べるようになった。専門家じゃないので、岩波書店の「日本古典文学大系」なんか買って与えたものだ(笑い)。
 互いに相手の育った文化を専門領域にしていたので影響し合ったように思われるが、考え方や思想でそれぞれのアイデンティティーが明確になったことはあろうが、もたれ合いはなかった。それでかえって夫婦が長続ぎしたんじゃないかな。
 彼女は五、六冊本を出したし、日本とヨーロッパの新聞や雑誌に原稿も書いたが、その中で大事なことがいくつかあると思う。一つは非常に早い時点で、日本の女性文学がとても大事だというのを指摘した点。次は日本文学では随筆が格別重要な存在だということで、これは量的にも質的にも小説が中心の西欧文学とは違う点だ。日本では文章がきちんと書けない文学者は尊重されない傾向がある点を、彼女は力説していた。
 そんな彼女が骨盤内のがんに冒されれていると告知されたのは4年少し前のこと。その頃すでに永井荷風の『墨東綺譚』をドイツ語に訳し、次いで日記「断腸亭日乗」の翻訳も目指していたが、病気と知って以来は、この翻訳に精魂を傾けていた。長い日記なので全訳は望むべくもなく、対象を1937年だけに絞っていた。それは日本が幟争に突き進む決定的な年だと考えたからだ。
 彼女が死の直前まで文章を練るのに心眼を注ぐのを見て、僕はとても「無理をしないで」とは言えなかった。立場が逆でも、恐らく彼女は私と同じ態度を取っただろう。校正をすませ表紙や活字の色や字体を決めるところまで持ちこたえたが、それが最後で、結局本の完成を待たずに亡くなってしまった。普段はとても冷静な人が、ひどい痛みに叫びをあげて苦しみ、薬の副作用で平常心を保てぬ姿を見るのは、とてもつらかった。
 彼女が亡くなって、どうしようもない大きな空白が心にできた。2人でいた時が一番幸せだったのに、これからはそれが味わえない、むしろ悪くなるばかりだという絶望感。オルフェオとエウリディーチェの神話のように、黄泉の国に行って妻を連れ戻せればと、本当に思う。
 そんなわけで、今は正直ものを書く意欲がわいてこない。書く題材がないわけじゃない。例えば、最近亡くなった指揮者のカルロス・クライバー。僕ならカリスマ性で皆を魅了した彼への賛辞ばかり書いてもつまらない。彼はなぜベートーヴェンブラームスなど一部の交響曲や「ばらの騎士」や「こうもり」といったわずかなオペラにレパートリーを絞ったのか。そうした彼の姿勢に、やせ細り閉塞したクラシック音楽への痛ましいまでの抗議が陰画のように込められていると思う。批評とは結局、対象を切実に自分の内面で受け止め、問い直す作業ではないか。

 僕は戦後から約50年間、一貫して批評一筋の仕事をしてきた。日々の生活と仕事を半々でこなしてきたが、妻が亡くなったことで生活面での負担が増え、今は仕事というもう一つのお店は休業している状態。毎月原稿に迫われて休みなく書き続けたことから解放され、正直ほっとしてもいる。気力充実していた頃と違い、今は体の半分がなくなったような気分だ。「音楽展望」も無理を言って休ませてもらっているが、せめて正月にならなければ、この先いつやれるかわからない。

バルバラさんを失った翌年ということは、2004年の記事でしょうか。衝撃を受けて切り抜いたのを覚えています。

この記事について、コアなクラシックファンは憤りや情けなさを感じる人もいるかもしれません。妻を亡くしたくらいでなんだ、と。実際、わたしも一瞬だけそんな感情を抱きました。でも、逆に考えると、吉田先生はこのとき自身が築いた朝日新聞のキャリア、イメージを壊しかねないような心情の吐露をせざるを得ないくらいの深くて暗いところにいたのでしょう。そう考えると、上の言葉のひとつひとつがわたしに響いてくるのです。

おそらく、この語りおろし記事は多くの読者の問い合わせに答える形で企画されたものなのではないでしょうか。ひとつひとつに対応するよりも、いっそ本人に回答してもらおう、と。

そして、読者もこの記事を読んで納得したことでしょう。この記事には、吉田先生の鎌倉の自宅で撮影された写真も添えられています。ドテラを羽織り、憔悴しているその姿を見たとき、問い合わせをした読者も『納得したはずです。「こりゃ、あかんわ」と。

 

ここ数年、わたしの身の回りで大事な人の訃報が続いています。

大事な人を失った悲しみ。

その悲しみの大きさは、その人にしかわかりません。

 

亡くなった人のためにできること。

それは、その人のことをいつまでもおぼえていることです。

敬愛する四方田犬彦先生の言葉です。いま、わたしはこれを忠実に実行しています。

 

部屋の整理をしていたら、こんな切り抜き記事が見つかったので引いておきました。朝日新聞のこの記事、当時20代半ばだったわたしにはいろいろな意味で衝撃的だったことをおぼえています。

 

その後、吉田先生は2006年の11月に復帰し、年4回の連載ペースに落としましたが2012年に98歳で亡くなるまで連載を続けられました。

その魂の安からんことを。

 

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吉田秀和全集(9)音楽展望

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新・音楽展望―1984-1990

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新・音楽展望〈1991‐1993〉

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