漂えど、沈まず。

文化系税理士 佐藤 龍 のブログです

読書で生まれる時空越えた共鳴/『道の向こうの道』森内俊雄

部屋の整理を続けています。

新聞のスクラップを整理していたら、いずれ読みたいと思った書評が出てきました。

 

 

読書で生まれる時空越えた共鳴

『道の向こうの道』森内俊雄

 

1950年代後半に著者が過ごした大学生の時期を、自伝的に綴ったこの連作小説集は、読書の時間に満ちている。かつての学生は、こんなふうに本を読んだのだ。ここに書かれていることは、いずれも唯一の経験であるはずなのに、ある種の典型でもあるかのように見えてくる。そんな場面がいくつもある。
 クラスのある女子学生がフランスの大河小説を読んだとなれば「大急ぎで追っかけ読書をするものがいた」。長い作品なら簡単には読了できない。「そこをあえて、乗り越えるのである」。学生同士の対話も、たとえば「いま、何を読んでる?」「島崎藤村『夜明け前』を半分くらいのところ。学生運動をしているような人たちは、読むべきだよ、幕末、明治初期についての勉強がしたい」といった感じだ。読書そのものはいつも、一人の行為だ。けれど、身近なところで共鳴が生じる歓びには、愉しさ以上の切実さがある。
 実家は大阪。東京との往復には夜行列車を使う。夜行のベッドでも読書。その時間にも発見があり、友人に語りたくてたまらない。「夜行列車の読書の感想を話したいばかりに、雑司ケ谷墓地そばの田中一生の下宿を訪ねた」。こうした光景に懐かしさを感じるか、むしろ新鮮さを感じるかは読者しだいだ。恋愛や喧嘩があり、定食屋、音楽喫茶、酒があり、確かにある時代の学生風俗が切り取られているのだが、固有名詞を伴う具体的な記述が多いわりには、後へ残る味は意外なほど軽やかだ。
 投稿雑誌に詩が選ばれて載ったこと、伊東静雄の詩集をとても大切にしていたことなど、詩への思いも描かれる。古書店で買った本に、以前の持ち主によるものか、鉛筆で傍線が引かれている。「わたしは、それに負けまいとして頑張った」。だれかが、どこかで本を読んでいる。その痕跡や、時間と空間を越えて生まれる共鳴の尊さが、じつに爽やかに伝わってくる。  (評者 鵜飼 耳)

 

道の向こうの道

道の向こうの道

 

 

「こうした光景」に懐かしさを感じるクチです、わたしは。こういう時期、たしかにわたしにもありました。文学部の学生には実験などのノルマや目に見える成果はありません。その代わり、ひたすら本を読む。映画を観る。音楽を聴く。経験した作品の数と質がすべて。だれかに負けまいとして経験を重ねていくのですが、じつは勝つことが目的なのではありません。むしろコテンパンに論破されたり、その体験を共有することが目的。今から考えれば、ずいぶん贅沢な時間を送らせてもらいました。

読書の話となると限られた趣味の話に聞こえるかもしれませんが、これ、分野は何でも同じことですよ。音楽だったら、海賊版を集めまくったとか、ソロのコピーをしてたら市販のコピー集の間違いを見つけた、とか。

 

この書評に出会うまで、不勉強ながら森内俊雄氏のことは知りませんでした。そして、押し付けがましさ薄めに読書の素晴らしさを謳うこの本を推した評者の審美性に感謝。