漂えど、沈まず。

文化系税理士 佐藤 龍 のブログです

『虚無への供物』中井英夫、講談社文庫、1964年

やっと読んだよ。

 

 

大学時代、ミステリ好きな友人(島田荘司の『占星術殺人事件』を勧めてくれた男だ)からこの本を教えてもらった。

だが、当時は絶版か何かで、簡単にアクセスできない状態だった。もちろん、図書館やら何やらすれば読むことはできたんだろうけど、そこまでわたしはミステリが好きだったわけではなかったので。

 

で、そのまま数十年経ち、ふと、この本のことを思い出してamazon購入。

やっと読んだよ。

 

感想は、綾辻行人の『十角館の殺人』と似ている。

この本、当時の革命的なラノベだったんだろうな、というもの。

情報量多めの舞城王太郎

当時の人々が、戸惑いとともにこの作品を受け止めたことだろう。

いや、受け止められなかったから、何十年も残り続けているのだろうか。

 

わたしの感想を素直に述べておくと、

まず、文体がノレなかった。

これは時代の問題だと思うが、軽すぎたり、重すぎたり、わたしの好みとは違いました。あと、当時の風俗・流行の描写が多すぎてよくわからなかったけど、それはそれでいい。

ゲイ文化、この頃から脈々と力強く存在していたことにオドロキ。

 

そういえば、山田五郎さんが自身のYoutubeで、ヘンリー8世がコッドピースを誇らしげにさらしている絵画を説明しているときに、「着飾る、ということに関しては、男も女も関係ないんだよ。むしろ、長い歴史を考えると、男のほうが着飾ってるのは多いんだよ」と言っていたのを思い出した。

ゲイ文化というより、ドラッグ・クイーンの美学というべきなのか。

でも、それなら女性的な着飾り方ではなく、男性での着飾り方に徹底していけばいいのに。ジローラモや、麻生太郎のスーツの着こなしのように。

ああそうか、男性の場合、「男のオシャレ」の規範が女性の場合ほど常識・教養になっていないのか。だから、わかりやすい形として、女性のファッションの歴史を借りた、と。そしてこれには「男は強くあらねばならない」的な偏った日本思想もあったのだろうか。

 

・・・なんてことが気になって、肝心のミステリのトリックは、わたしにはどうでもよかったです。

 

エンターテイメントの作品で、博覧強記な作者の筆によって虚構と現実が交錯し、殺人ミステリ的なキャッチーな出来事が衒学趣味(ペダンチック)に彩られる作品、といえば、ウンベルト・エーコの『フーコーの振り子』。わたしにとってはこれが最高。映画に関するものだったら、『フリッカー、あるいは映画の魔』。

『虚無への供物』は、特にこれを超えることはなかったです。

 

少し調べると、この小説はミステリというより、日本の三大奇書として認識されているようだ。いわく、夢野久作ドグラ・マグラ」(1935年)、小栗虫太郎黒死館殺人事件」(1935年)、中井英夫「虚無への供物」(1964年)。

前2書と30年ほど期間があることからわかるように、当時はこの本はよほど「ヘンな本」としてとらえられたのだろうな、と。

 

ドグラ・マグラ』は確かにすごかった。

初めて読んだのは中学生か高校の頃で、とにかく、自分が読みたかったのはこういう小説だ! と興奮したことを覚えています。

そうか、わたしの小説の価値観って、漱石と鴎外、『ドグラ・マグラ』と『フーコーの振り子』で作られてしまっているのか。

 

・・・そんなことを確認できた読書体験でした。