折々のことば、続きます。
ファシズムにおいて禁じられているのは反ファシズムの発言などではなく、沈黙なのだ。 四方田犬彦
朝日新聞 「折々のことば」(1476)
ファシズムは「人に沈黙を強いる制度」のように言われるが、実は逆で、誰もが同じことを同じように語る、そういう事態を「さりげなく成立」させる制度だと評論家は言う。今でいえば「忖度(そんたく)」をいくら口を揃えて糾弾しても事は解決しない。そこには、語りの同調に抗(あらが)う、沈黙や外し、時に猫かぶりといったしたたかな戦略が要ると。「前衛と韜晦(とうかい・ねこかぶり)」
(「すばる」6月号)から。(鷲田清一)
昨日の「漂えど、沈まず」に続き、かぶりついて読んだ記事です。
この記事、毎日配達される新聞の片隅の、そこに連載されているある日の記事にすぎませんが、わたしにとっては大きな事件です。
これ、なにが「事件」なのかわかりませんよね。自分を落ち着かせるためにも、いくつかの相にわけて考えてみます。少しだけお付き合いください。
1.引かれている四方田先生のアフォリズムが難しい。
これはこの連載についてわたしが時々感じることですが、たまに、やけに複雑というか繊細な内容のことば、いわゆる「攻めた」ことばを引かれるときがあります。
四方田先生のこれもそう。
「ファシズムは「人に沈黙を強いる制度」のように言われるが」なんて解説が必要な時点で、かなり攻めてます。字数が限られている新聞の連載記事で、あえてこんな繊細な内容をもってくるあたり、鷲田先生も攻めてるなあ。
2.「黙っている」ことは、ときには強い意志表示なのだ。
鷲田先生がこのことばを選んだメッセージはこれでしょう。ファッションから臨床哲学まで、あんなに繊細なことを論じてきた鷲田先生です。現代の様々な現場の強力な無言の圧力もご存知なはずです。
「イヤだって思ってたんだったら、そのとき言ってよ!」などというのは、多数派、強者の立場のことばですよ。現場では、多数派に賛成する表明として、挙手や拍手まで求められます。「黙っている」ことすら難しいほど、同調圧力は強力である。それが鷲田先生のいまの日本の現状認識なのではないでしょうか。
集団の中にいるときに、息苦しさを感じてしまう人。その集団は、沈黙を許してくれますか? 沈黙を許してくれないような集まりなら、とっとと抜け出しましょう。たぶん、そこにいてもあなたは不幸になるだけです。
3.鷲田先生と四方田先生の絡みは珍しい。
そのままです。
鷲田先生はわたしの研究分野と一部かぶるところがあり、学生時代に私淑し、講義も受けた「先輩」で、四方田先生はわたしがもっとも敬愛する文化人です。
このお二方、80年代、90年代をアカデミズムでありながらメディア、サブカル業界でも人気がありました(わたしが初めて鷲田先生の名前を知ったのは、たしか「BRUTUS」の京都特集号です。そこで、九鬼周造の京都学派における特異なポジションをクリアに語られていたような)。でも、この2人、目立った交流はないんですよね。
映画とファッション、ベルクソン(あるいはドゥルーズ)とメルロ=ポンティ、東京と京都…そこにどのような距離があったのかはわかりません。単純に、接点がなかったのかもしれませんね。
4.ルビだらけでわかりにくい。
「忖度」は、ルビ必要なんでしょうか。お笑い芸人のネタになるくらいですから、「そんたく」のルビはいらないと思うんですよね。
ただ、ここで取り上げられている「前衛と韜晦(とうかい・ねこかぶり)」は少し複雑です。四方田先生は「前衛と韜晦」を「ぜんえいとねこかぶり」と読ませたかったのでしょう。なるほど、「韜晦」は猫かぶりのことですか。上野千鶴子先生が得意だったやつですね。そう考えると、「(とうかい・ねこかぶり)」という注はずいぶん親切だ。
というわけなんです。
この「折々のことば」、攻めてるでしょう。
もうひとつ付け加えると、『ハイスクール1968』あたりの四方田少年の気持ち、そのもののような気がするんですよ、このことばは。当時の高校でのバリケード運動の総括として、同じことばをもてなかった四方田少年は高校を休んでケーキ工場で働き、沈黙を選んだのではないでしょうか。
そんなことを、朝からあれこれ考えてしまった日でした。