漂えど、沈まず。

文化系税理士 佐藤 龍 のブログです

(四方田犬彦先生)若き映画批評家への手紙。

こんにちは。

文化系税理士の佐藤です。

 

なんとか確定申告をなんとか乗り越え、年度末ということで部屋の掃除をしていたら、こんな本が出てきました。なつかしい。

 

映画の見方が変わる本 (別冊 宝島)

映画の見方が変わる本 (別冊 宝島)

 

 

パラパラとめくると、なんと冒頭に敬愛する四方田先生のエッセイが。 

各種メディアで書きまくっていた、若き日の四方田先生のタッチ。

これ、京都に来た春に読みたかったなあ。

…というわけで、映画について何かを書きたい、または書けることがあると思っている若者よ、とりあえずこの四方田氏の言葉に耳を傾けよ!

 

若き映画批評家への手紙
映画評論なんてオレでもできる!という君、その通りだ!
毎年のベスト10選びはただの自己満足だし、「第三世界の映画」なんて言葉を平気で使う卑屈な西欧主義者がゾロゾロいやがる! 映画雑誌はどれもくだらない!
批評界の人斬り与太(斬られ与三?)が、映画界に巣くうバカどもをメッタ斬り!
四方田犬彦(批評家)

 

 ……さて、君は今から映画評論家になろうとしている。ぽつりぽつりと試写状も舞い込むようになった。まだ八百字のコラムだけれども、仕事の注文がくるようになった。TCC(引用者注:東京コピーライターズクラブ)の場所も、ユニジャパンの場所も、東宝東和第二試写室の場所も、地図を見ないでも行けるようになった。君ははじめて小森和子を見かけたときのことを、ある感動をもって憶えている。彼女は本当に、君がTVで知っているあんな顔をしていたからだ。それから君は本物の淀川長治を見かけたし、木物のおすぎとピーコも見かけたし、ついでにいえば、本物の中野翠さえ見かけたことがあった。

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小森 和子(小森のおばちゃま

 

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淀川長治(サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ)

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おすぎとピーコ

 

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中野翠


 けれども君は、これまでの映画評論家のなかで自分が一番エライと思っている。君からすれば、何某は単に勉強を呼びかけるだけの時代遅れの進歩派だし、何某の難解な著者は、不幸なことにヴィデオ時代の前に執筆されたために、あまりに情ない間違いに満ちている(細部の間違いを発見したとき、君は鬼の首をとったかのように狂喜したものだ)。何某や何某や何某とかああいったフランス映画の「おたく族」は、いったい誰が何を書いてるのか、ちっとも区別がつかない。何某は獄外無転向組だが、すっかり道徳家になってしまった。何某だって昔ゴダールゴダールと叫んでいたくせに、今はすっかり牙を抜かれてヤッビー雑誌にコラムを書いて喜んでいるだけだ。何某は老人にはヤング・カルチャーを、ヤングには中途半端なウンチクを傾けてるだけの蝙蝠野郎だし、あとの連中は屁理屈をこねまわして星取表に点数つけるだけじゃんか。それからタレント。退屈な記号学者。頭が悪いだけの老人。

 誰も本当の映画の面白さについて語っていない。映画を語るにふさわしい最上の言語を自分のものにしていない。それができるのは自分だけだ。自分の情熱だけだ。
 君はこんな風に自惚れている。自分だったらもっと上手に、もっと面白く書けると思っている。あるいはそうかもしれない。
いや、たぶんそうだろう。君には先行する世代を馬鹿にし、自分のオリジナリティを売りこもうとするチャンスが到来しているのだから。だが、その前にぼくは聡明な君に、多少の老婆心からいくつかの経験的知識を授けておきたいと思う。もっとも映画批評界のセリーヌを目標とするぼくのことだ。話半分に聞いておいてくれたまえ。君には十三年前、はじめて映画批評を書きだしたころのぼくに似たところがある。そう思うぼくのセンチメンタリティだけを、この手紙の根拠と考えてほしい。ぼくがまず君にいっておきたいのは……。


映画評論家は誰でもできる。

 のっけから驚いたかもしれないが映画評論家がバカだと思ってはいけない。バカが映画評論家になるのだ。とりあえずなんのメチエもない、ただモノを書きたいだけの連中は、映画のコラムを書くのがいちばん簡単なのだ。映画の知識がないから心配? だいじょうぶ、マイ・フレンド。試写会室で配給会社がちゃんと虎の巻を配っている。ちょっと言葉を変えて写しちゃえばいいんだ。映画史的知識などどうでもいい。今ではヌーヴェル・ヴァーグだろうと、スプラッターだろうと、香港映画だろうと、どの分野に精通するかは、たかだか趣味と縄張り意識のレヴェルの問題になっちまったのだから。映画文化の中心などない。好き勝手に、スキゾフレニックに書けばいいんだ。
 日本では映画評論家が映画のことを知らなくても、別に不思議ともなんとも思われていない。これが文芸評論や競馬評論だったら相手にもされないだろうといった無知丸出しの連中が堂々と商売をしている。朝日ジャーナルの文化欄担当者のように、自分では「本誌」以外にモノを書いたこともなく、書かせてもらったこともないくせに、近頃は映画評論家じゃない人の映画評のほうが面白いんですよねぇ、と卑屈な助平笑いをしている記者もいるくらいだ。えー、『イントレランス』って、日本初公開じゃなかったんですかあー、ってな具合だ。
 配給会社は映画評論家のために共通一次試験を実施し、試写会室ヘヒマつぶしにやってくる新聞記者や雑誌編集者をシャットアウトしてほしいものだね。

 

映画評論家の晩年はスサマジイぞ。

 ガランとした部屋に呑みさしのコーラ一本を残して死んだ斎藤龍鳳生活保護を頼りに闘病生活を送った斎藤正治。書かせてもらえる場所がなくなって酒びたりだった佐藤重臣。逆に働きすぎて力尽きた荻昌弘。みんないい人たちだった。とりわけ斎藤龍鳳の『なにが粋かよ』はちょっと姿勢を正して読むべき本だし、佐藤重臣は若い世代にケネス・アンガートッド・ブラウニングを吹きこんで、沈滞しだした七〇年代の新宿に孤軍奮闘した人物で、ぽくなどずいぶん可愛がってもらった。
 ここには名前を出せないが、もっと悲惨な例は、過去形でも未来形でもいっぱいある。四方田もいずれこうなる。君も連がよければこうなるぞ。

 

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斎藤龍鳳
なにが粋かよ

なにが粋かよ

 

 

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荻 昌弘

 


ベスト10というのは評論家の年中行事にすぎず、現在の訣画状況から完全に遊離している。

 一年に五百本以上、国外からフィルムが輸入されている現在、ベスト10に何の意味があるだろうか。これは映画評論家が一年に一度ささやかな政治権力を誇示できる瞬間以外の何物でもない。そして未だに「邦画」と「洋画」を区別している。そこにはいかほどの必然性もない。いったい中国のフィルムが「洋画」かね? ヴィデオのみの公開の場合はどうするのか。今では一般の映画体験のかなりの部分は、レンタル・ヴィデオ店を通してなされているというのに。
リュミエール』の出現は飽食時代のグルメ・ブームと軌を一にしている。

 

季刊リュミエール (6)

季刊リュミエール (6)

 

 
 『リュミエール』は、フランス語ができてある種のアメリカ映画が好きな人と、フランス語ができないのにアメリカ映画が好きな人と、フランス語も英語もできないのに映画が好きな人が召集をかけられて作りあげた映画雑誌であり、ここに氾濫する固有名詞はグルメ雑誌に登場するフランス料理に似ている。ヌーヴェル・キュイジーヌを小馬鹿にし、伝統的リヨン料理を賞味する、といった感じだ。ちなみに『イメージ・フォーラム』は時級別B級グルメ指南書、『キネマ旬報』は『月刊食堂』である。『映画芸術』だけは、今もってよくわからない。

 

イメージフォーラム 1988 4月増刊 キューブリック KUBRICK

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映画芸術 2019年 02 月号 [雑誌]

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月刊食堂 2019年 04 月号 [雑誌]

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 さて、これからは具体的に映画評論家を識別するリトマス試験紙の例を二枚、三枚と記しておこう。

 

謝晋の『芙蓉鎮』を絶讃した
日本の進歩的知識人を信用してはならない。


 文革のとき、わたしたちはこんなに、こんなにヒドイ目にあったんですよ、とメロドラマを描く謝晋は、はたして文革時にまったく潔白だっただろうか。また『芙蓉鎮
をホメる日本の”中国通”知識人は、六〇年代後半に文革に対してどのような発言をしていただろうか。二枚舌の文化チビ官僚が中国映画について堂々と本を出せたりする日本という国で、これはいちど洗いざらい調べてみると興味深い問題だ。

第三世界の映画、というものはない。

 一方に、中国や韓国、ラテンアメリカやアフリカの映両をジュッパヒトカラゲにして論じ、「第三世界」の名のもとにホメたり、映画を通して歴史を勉強しようと唱える輩がいる。もう一方に、東アジアやアフリカではあたかも一本も映画が搬られていないようなふりをしながら、南アフリカでの名誉白人よろしく、「名誉ハリウッド人」や「名誉フランス人」を気取って、洋画エンターテインメントの紹介にはしゃぎまくっている輩がいる。
 両者は対立しているのだろうか。
 いや、そうではない。どちらもが世界の映画を「第三世界」と「第三世界以外」にきれいに分割し、互いの領分を犯すまいとしあっている点で、固く手を結びあっているのだ。
 第三世界の映画→世界の歴史の勉強・メッセージ・真面目→「世界の連帯」というスローガン。
 非第三世界の映画→映画史の勉強→人脈のつながり→カメラやモンタージュの独自性→「映画はわれらがもの」というスローガン。
 だが、実際のところ、「第三世界」というカテゴリーによって、モロッコから韓国ま
で、フィリピンからチリまでを統括することは、一九八九年ではほとんど無意味なことになっている。一九五〇年代にアメリカが自らを当然のごとくに「第一」とみなし、社会主義国を「第二」とした段階で、残りを面倒くさいから「第三世界」にしちゃった。こんな旧時代のパラダイムにのっとって、今日の映画をくくることは誤っているどころか、愚かであり、低劣だ。一九一〇年代から精力的に映画産業を発達させてきたインドやエジプトといった国々と、映画作りの歴史が浅く、一年に何本かのフィルムしか生産されず、そのうち国内では上映禁止、国外でのみ観られる作品が存在してしまうというセネガルのような国を、同じカテゴリーに入れて論じることは、ズサンな作業ではないだろうか。「第三世界」の連帯が楽天的に信じられた一九六〇年代は、今日では遠い過去となってしまった。世界中でこの言葉がかつて示した地域ほどバラバラ、映画産業もバラバラで個性豊かなところもないのだ。
 国際映画祭などで、カツオの一本釣りのようにして日本に入ってくる、そうした諸国のフィルムが、その国の映画界を最も優れて反映した作品であるという保証は少しもない。ともすれば海外向けのエクゾチシズムばかりが目立ち、実際にその国の映画ファンによって支持されている映画とは似ても似つかない、という場合が少なくない。きわめて西洋的教育を受けたエリートによる映画だけしか紹介されていない国もある(同じことは八〇年代のカンヌ映画祭にどのような日本の映画が出品されてるかを思い出してみてもいいだろう)。インドやエジプトの一般の映画館で満員のなかで三時間もする大長編ミュージカルを観るのと、東京の新聞社のホールで、現地の入場料の十倍も二十倍もの金を払い、あてがわれた一本か二本を観るのとでは、映画体験に大きな差異があるはずだ。

 

ゴダールはいう。
映画は特定の人のものだ。
万人のために撮られるフィルムなど存在しない。

 『ゴダールの映画史』(筑摩書房、奥村昭夫訳)のなかで、ゴダールはそういっている。

 

ゴダール 映画史(全) (ちくま学芸文庫)

ゴダール 映画史(全) (ちくま学芸文庫)

 

 


 エジプトの映画はエジプト人を対象にして、エジプト人のために作られている。アルジェリアの映画はアルジェリア人を対象にして、アルジェリア人のために作られている。台湾の映画は台湾人を対象にして、台湾人のために作られている。それでいい
のだ。それが健全なことなのだ。
 あらゆる人間がすべての映画を必要としているわけではない。ある人間にはあるフィルムが必要であるが、別のフィルムは彼を観客の対象として撮られているわけではない。
 世界中のすべての人のために、という目的で撮られている映画は、一種類しかない。
ハリウッドである。ルーカスやスピルバーグが世界中に蔓延させている「面白さの普遍性」という考えこそ、真にアメソカン・イデオロギー的なものである。老人から子供まで誰が観ても愉しめる、といった文句の背後に潜んでいるのは、『スターウォーズ』や『インディ・ジョーンズ』をいっこうに愉しめなかった者は世界から排除されなければいけない、という論理である。面白さとは何か。はしゃぎまわるためには、ハリウッドの映画における「面白さ」の構造を冷静に受けとめてからでも遅くない。金をもらってもいないのに、スピルバーグを誉めるな。
 ふたたび「第三世界」の映画に戻ると、現実にあるのはフィリピン映画であり、中国映画であり、エジプト映画なわけだ。いや、こうした国籍ではたして映画がくくれるのかも最近は怪しくなってきた。本当に存在しているのはリノ・ブロカの映画であり、田壮壮(ティエン・ツォンツォン)の映画であり、シヤヒーンの映画でしかないわけだ。
 サタジット・レイは、長い間こうした「第三世界映画」というコンセプトのなかで、ずいぶんと損をしてきたシネアストだ。べンガルで生を受け、ロンドンに学んだレイは、「大地の唄」の三部作によって、インドの自然と人間をリリカルに描く作家として世界中に紹介された。次に、あんなのは本当のインド映画じゃないとにべもなく否定されてしまった。昔はライと記されていたのに、癩病を連想させるためか、レイと記されるようになった。なるほどナイールの「サラーム・ボンベイ」といった八〇年代にスラムの子供たちを描いたリアリスティックなフイルムと比べたり、またレイの世界的知名度の陰に隠れている年間何千本ものインド映画を考えあわせるなら、たしかにレイは「西洋的」すぎると批評されても仕方がない。だが、レイが仮に「西洋的」であったとして、日本の批評家で彼をトリュフォーと同列において論じた人物がいただろうか。実をいえば、ともにルノワールの薫陶を受けたこの二人の監督は、秘められたエクリチュールの快楽とか、野遊びと水の悦びとか、内気さゆえに取り逃した人生、といった主題において少なからぬものを共有しているのだ。『チャルラータ』を観たことのある人なら、庭園の散策と人妻の孤独のシーンにルノワール的な官能性の発現をただちに認めるはずだ。
 「第三世界」派と「名誉フランス人」派のどちらの側に立っても、こうした発想は出てこない。このあたりがレイの不幸なのだ。では黒澤明の場合は、エイゼンシュタインの場合はどうだろうか。君は暇があったら考えてみるといい。


『ハリマオ』と『清朝皇帝』を比較すると、
NHKBBCの水準の違いがわかる。

 和田勉の『ハリマオ』はひどかった。けれどもテレビマンが映画を撮ったからダメだ、なんて差別言辞は絶対に口にしないことにしよう。ヨーロッパのテレビ番組の水準を知っている映画人はもっと謙虚だ。BBCで修業を積んだ許鞍華(アン・ホイ)や、TVB出身の厳浩(イム・ホー)が今日の香港ニューウェイヴを築いたのだから。

今時「ヌーヴェル・ヴァーグの自己言及性」なんて口にする奴は、
気狂いピエロ』という題名がテレビでは厳重なタブーであることを知らないのだ。

 

気狂いピエロ [Blu-ray]

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 フジテレビが五月十一日深夜に放映したゴダールの『気狂いピエロ』は、差別用語問題には蓋をせよという方針なのだろう、『ピエロ・ル・フー』というカタカナ表記になっていた。浦山桐郎が死んだとき、別のテレビ局はデビュー作『キューポラのある街』の、在日朝鮮人が登場するシーンをカットして放映した。ラストシーンでテレビが燃えあがるという鈴木漬順の『悲愁物語』は、いまだかつてブラウン管に登場したことがない。ゴダールヴェンダースをブランド商品のように口にする「おたく族」は、こうした事態をはたして気にとめたことがあるだろうか。


今度のキネ旬報『外国映画監督・スタッフ全集』は
何の役にも立たない。文字通りの駄本だ。

 キネ旬の事典は昔から執筆者の姿勢とレヴェルが揃わず、間違いが多いことで有名だったが、この五千円の新刊は、フィルモグラフィを作る態度がなってない。「巨匠と
呼ばれるような人々はなるべく全作品を掲載するように努めた。また作品数が少ない人も全作品を掲載してある」とは巻頭言。まいったね。中国、韓国人名の表記も原則なし。「スタッフ全集」というのに、ラザール・メールソンには一行の言及もない。索引はファースト・ネームで索(もと)めるという珍妙ぶり。これは粗大ゴミだ。


カネボウ国際女性映画週間とは何か?
映画はいつ公衆便所になったのか!

 またぞろ東京国際映画祭の季節となった。監督が女性というフィルムだけを集めて開
くこの催しも三回目を迎える。主題的にも、ジャンル的にも、作品どうしには何の共通
項も存在していない。ただひとつ、監督が女性であるという点を別にしては。では、監督が女性であれば、女性らしい映画、母性と女性の自立をうたった映画、女性独白の感性と世界観を提示する映画を撮っている(あるいは、撮らなければいけない)とでもいうのだろうか。女性にしかできない職業というのは、人類史はじまって以来、ひとつしかないはずだ。女が撮った映画は面倒くさいから一カ所に押しこんじまえ、というのはあまりに文化官僚的な発想だ。それならどうしてリーフェンシュタールをメイン・ゲストに呼び、『意志の勝利』をオープニングに上映しないのだろう。


日本には奇怪なことに、
女性の劇映画監督がひとりもいない。
しかし女性の映画評論家は掃いて捨てるほどいる。

 カバーニ、ヴェルトミューラー、ヴァルダ、モラーズ、許鞍華、張婉婷(引用者注:メイベル・チャン)、李美礼、セイラ・ドライヴァー……。女性が監瞥であることは、世界的には珍しいことでも何でもない。ところが日本では、田中絹代などごく少数の例外を別にすれば、女性監督は皆無に近い。七〇年以後に女性が監督としてクレジットされているのは、日活ロマンポルノの『ANO・ANO』くらいではないか。これはいったいどういうことなのか。日本の女性が映像的にバカだという説は正しくないような気がする。だって日本の映画評論家には、あれはどの数の女性がいて、日夜、日本映画の興隆のためにせっせとレヴューを書いているからだ。では、映画全社の前近代的封建体制が問題なのか。芥川賞作家から霊界俳優までが一度は監督の座についたというのに、どうして女性監督が登場しないのだろう。日本の映画人たちは女に命令されるのがそれほどまでに嫌いなのか。東京でまたぞろ「国際女性映画祭」というグロテスクな催しが行なわれてしまうのも、実は「女が映画を撮るなんて、まあ珍しいわ!」という暗黙の心理をあてこんでこそのことなのだ。
 林真理子よ、池田理代子よ、メガホンを握れ!


このエッセイはどうも格調がないな、

と君は思ってるだろう。
だったら格調を出すゾ。
今や映画批評界の水戸黄門と化した感のある、
ジル・ドゥルーズ様の葵の御紋だ!

 映画についての理論的著作が何の役に立つかということは、これまでずっと問われてきた(とりわけ状況のよろしくない現在において)。ゴダールは喚起しようとする。ヌーヴェル・ヴァーグの未来の監督たちが批評を書いていたとき、彼らは映画について書いていたのでもなければ、映画から理論を抽出していたわけでもなかった。それが彼らなりの映画の綴り方だったのだ、と。もっともこの意見は理論というものについて多くを語っているわけではない。理論もまた作られるべき何物かであり、理論の対象と同等であるからだ。哲学とは「作られる」べきものではなく、あらかじめ存在していて、プレハブっぽいレディ・メイドだと信じている人がたくさんいる。しかし、哲学理論にしたところで、その対象と同じく、やはり実践なのだ。対象と同様に抽象的であるはずがない。哲学とは概念を用いた実践なのであって、哲学が関わりあう他の実践をかんがみて判断しなければいけない。映画理論は映画「について」のものではなく、映画がもたらすもろもろの概念についてのものであって、それ自身は他の実践に対応している他の慨念に関わっている。有体に言って、他の対象と同じく、他の概念に対しなんら特権を有していない、概念の実践なのだ。事物が、存在が、映像が、概念が、つまりあらゆる出来事が生ずるのは相互関係性の水準においてである。映画理論は映画にもたれかかるのではなく、映画の概念に依存するのであり、それは映画と同様に現場での実践と効果にもとづいている。偉大な映画作家は偉大な画家や音楽家などには似ていない。つまり、彼らは自分の仕事について優れて語りうる者たちだということだ。もっとも、語っている間に彼らは別の存在、哲学者か理論家と化してしまう。たとえホークスに理論がなく、ゴダールが理論への不信を披露したところで、映画の概念は映画のなかにあるわけではない。にもかかわらず、それはやはり映画の概念であって、映画についての理論ではない。だからこそ、われわれは朝から晩までもはや「映画とは何か?」ではなく、「哲学とは何か?」と問わなければいけないわけだ。映画そのものは映像と記号による新しい実践であり、その理論哲学は概念の実践として作りあげられる。それが応用論的なもの(精神分析言語学であれ、反省論的なものであれ、いかなる技術的な決定論も、映画そのものの概念を構築するには充分ではない。
 ジル・ドゥルーズ「映画理論は役に立つか」(『シネマ2』ミニュイ社・一九八五)

 

シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)

シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)

 
シネマ 1*運動イメージ(叢書・ウニベルシタス 855)

シネマ 1*運動イメージ(叢書・ウニベルシタス 855)

 

 
……というわけだ。訣画批評の前途は明るいぞ。
みんな、頑張れ!!

……長い! けど、おもろいです。

当時の文化風潮がうかがえる文章ですね。53年生まれの四方田先生は、執筆当時36歳。なるほど、そんな感じです。

上の文章は30年前の文章! こういうときのクリシェですが、いまでも通用する警句がいくつもちりばめられています。

タイトル通りの激励、とも読めるし、映画批評家である自分に対する自虐的な韜晦、とも読めるし、映画批評家となるべき最低限の条件の提示、とも読めますよね。

とりあえず、43歳にしてこの文章に触発されたわたしは、名前に同じ字が使われていることに親近感をおぼえたこともあって、斎藤龍鳳の『なにが粋かよ』を買っちゃいました。

 

なにが粋かよ

なにが粋かよ

 

 

いやあ、この文章、大学1回生の時に読みたかった。

わたしはキネ旬ではなく、「ぴあ」の「シネマクラブ」を大学の生協で買って、レンタル・ヴィデオ店でシコシコと映画を勉強したクチで、ここに書かれてること、よくわかるなあ。でも、四方田先生のこの文章はわたしが大学一回生のときの10年弱前なわけでして、発表当時とは若干状況が変わっていたのかもしれませんね。

2019年現在、コミック原作やドラマのスピンオフ、完結編が劇場でヒットとなり、というか劇場の主な収入源となることなんて、10年前は想像できませんでしたよ。

 

「若い」とは「生意気」と同義であり、「生意気」とは「身の程知らず」程度の意味でしょう。

ただ、不思議と若いころはこの「生意気さ」が評価されたりします。

というか、年配の人々が若者に期待するのは実はこれだけであり、若いうちは話を拡げられるだけ拡げておくと、後につながる、なんてこともあります。

若き映画批評家よ、自分の審美眼と理性と良心とを恃みに、書きまくってください。

 

以上、備忘録でした。