先日の『ギャラリーフェイク』の続きです。(ギャラリーフェイク(2))
この先日の記事では、フジタの名言というか、美に関する基本方針について書きました。
今回はもう少し細かい分野というか、各論の話です。
学生の頃に学んだフジタの教え、わたしには今でも守っているものがいくつかあります。
その中で真っ先に思い浮かぶのがこれ。
(第7集「仁王見参」)
オレは何が嫌いといって、ピースサインして写真に写りたがる奴ほど嫌いなものはない!
美意識ゼロだ!
まったく同感です。ピースサインしてると、表情とのバランスも難しい。
美意識は別としても、全部同じポーズだとあとから見たときに面白くないですよね。
「サラのピースならカワイイからいいじゃないか…」とも思いますが、カワイイからこそ、フジタは許せなかったのでしょう。
次もフジタの美意識に関するひと言。
援助交際が流行っていた頃、フジタも とある女子高校生を誘って文化祭に出かけます。しかしその目的はデートではなく、名門女子校のバザーに出品された旧家や資産家の骨董品。「オヤジなんて臭くてウザくて女とやることしか考えてない地上のサイテーの動物さ」とオヤジ一般をバカにするエミに向かってのフジタ。
(第11集「ダディベア」)
オヤジがみんな、お前たち娘っ子の青くさいケツにヨダレをたらしてると思ったら……
大マチガイだぜ!
ズキュン!
これは刺さりました。
以後、しばらくは年下や若い女の子には興味がなくなってしまった時期も。
畳くらいですよ、新しいほうがいい、なんてものは。
次は「目利き」について。
(第14集「地蔵現る!」)
この世界ではだまされるほうが悪いのさ!
自腹を切り、失敗で痛い思いを重ね、それを肥やしにして見る眼を養ってゆくしかないんだ。
少年のような澄んだ目をしたこのフジタ、3,000万をだましとった後の顔です。よくもヌケヌケとこんなことが言えますね。
でも、趣味の世界はこういうところあります。その意味でフジタのこの言葉はある意味真実なのです。自腹を切り、失敗で痛い思いを重ね、それを肥やしにして見る眼を養っていく――わたしはジャズ、古書、映画などを学生の頃から半ば周囲から呆れられながら貪ってきましたが、失敗した買い物も少なくありません。というか、わたし程度のハマり方では、いま成功と思っているものも本当に成功した買い物だったのか…。
フジタの後半のことばには全面的に同感ですが、前半の「だまされる方が悪い」はどうなんでしょう…。結局、この話ではフジタもだまされてしまいますしね。
次は色の話。
(第9集「色彩医院」)
緑は日本人にもっとも親しみやすい「いやし」の色であり――安全・安定・安心の色です。光のスペクトルでいえば中央の位置にあり、波長も長すぎず、短すぎず、眼への負担も少ないのです。
わたしはパーソナルカラーを緑にしていますが、その理由の一つにはフジタのこのうんちくがあるのかもしれません。今回読み直して気づいたことです。
ちなみに、この時フジタが推したルソーの絵はこれ。
……色彩はとてもいいと思いますが、蛇使いの女の人、病室の壁に飾るのには少し怖くないですか?
最後に、「着るもの」について。
「絵にとって額縁とは、洋服のようなものと言っていいだろう」のあとに、フジタはこう続けます。
(第9集「されど額縁」)
絵にとって額縁とは、洋服のようなものと言っていいだろう。
着る服によって人間そのものの価値が変わるわけではないが――その服が自然であるか不釣り合いに見えるか、はたで見る人間にとっては大いに気になるものさ。
「着る服によって人間そのものの価値が変わるわけではないが」のところが好き。
必要以上に金をかけるべきとは思いませんが、わたしも着るものには気を遣うべき、と考えていて、若い頃からそのことを説明するのに苦労しました。そんなとき、このフジタの言葉を思い出して、「額縁がショボイと、絵もショボくみえるでしょ?」と話すと、なんとなく皆納得してくれます。
社会人になってからの方が服装の重要性を痛感しています。その話も、またいずれ。