漂えど、沈まず。

文化系税理士 佐藤 龍 のブログです

フジタは巨乳派? 貧乳派? ー『ギャラリーフェイク』「変態編」予告

…いつまで続くのでしょうか。自分で書いておきながらアレですが、今回も細野不二彦先生の『ギャラリーフェイク』について。多分あと2,3回くらいは続きます。

今回は『ギャラリーフェイク』「変態編」の予告のようなものです。


 

最近思うのは、よくも悪くも「文化的」とは「変態であること」と同義であること。

このところ、わたしはワインにはまってぐだ呑み 研究 しているのですが、わかったことは「フランス人はやっぱり変態である」ということ。ただのブドウ酒を文化にまで高めたフランス人はすごい。大いなる変態です。

その観点から考えると、フジタもやっぱり変態なわけで。その片鱗は、先日のこの記事からも充分うかがえます。

 

 

フジタの変態性について、特に三田村館長との絡みについて書こうと思ったのですが、今日はその予告編的な意味合いでひとつだけ。

文化的にはまだまだ若輩者であるわたしですが、フジタのこのセリフ、近頃ようやくわかりかけてきました。

 

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(第16集「この胸にときめきを…」)

「ねぇねぇちなみにだけど……」

「なんだ。」

「フジタだったら 巨乳と小乳ーーどっちが好み? (なんちゃって。。)」

「好みでいうなら胸よりケツ! 女はケツだよ。」

 

大学時代にまったく同じことを言っていた友人がいました。今から考えれば、彼はわたしよりも女性について理解が進んでいた。女性について、少なくともフジタ程度には文化的であったのではないか、と。

そういえば、男の好みは、女性のことを知れば知るほど女の身体の下方に移動する、ということを何かで読みました。そしてさらにそれが進むともう一度てっぺんに戻るとも。とすれば、レッスン中にその髪の美しさにうっとりしてしまって「失礼。あなたの髪の美しさにみとれて、あなたのピアノを聞いてませんでした」なんて悪びれもせずに教え子に性的な嗜好をカミングアウトしたり、「亜麻色の髪の乙女(La fille aux cheveux de lin)」なんて曲を書いたドビュッシーはかなりのつわもの、変態レベル高めのマスターレベル、師範クラスになるのでしょう。

ギャラリーフェイクのこのほのぼのシーン、オチとして有効に機能してますが、フジタ(そしてもしかしたら細野先生)の本音が表れているところではないでしょうか。

このシーンだけを切り取ると、「なんだこのセクハラなやり取りは?」とみえます。しかし、この話自体は、好んで貧乳女性を描くクラナッハと、その作品に巨乳の女性が多いルノアールルーベンス、マネ、ゴヤを対比させ、それぞれの作家に惹かれる男2人がある女性をめぐって軽い恋の鞘当てをするという秀逸な話です。それに、この当事者の弾性に思いを寄せる女性自身のコンプレックスも絡んで……やっぱりすごいセクハラの話ですね、これ。

女性にとっては面白くない話かも。

 

f:id:Auggie:20181115043755j:plain『ルクレティア』ルカス・クラナッハ (1532)

 

ちなみに、引いたコマにあるように、当時はまだ貧乳という言葉は現在ほど市民権を得ていなかったように思います。かといって、「小乳」も一般的ではなかったはず。「巨乳」という言葉が早くいうちから広く使われていたのと対照的ですね。ここにも巨乳好きが多数派であることが表れていると思います。

どうでもいいことかもしれませんが、やはり貧乳派であるわたしは、「貧乳」なんて失礼な言葉は使いません。敬意を込めて「美乳」とか「微乳」とよんでいます。

 

…………いや、ホントどうでもいい話でしたね、今回は。