漂えど、沈まず。

文化系税理士 佐藤 龍 のブログです

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、桜庭一樹先生紹介文。

新聞を読んでいたら、こんな記事に出会いました。

桜庭一樹先生の『ライ麦畑でつかまえて』紹介文です。

 

 

古典百名山(No. 46) 桜庭一樹が読む

キャッチャー・イン・ザ・ライ』(J.D.サリンジャー

ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ」
 1951年、第二次世界大戦を経て高度経済成長の只中にあるアメリカで、本書は刊行された。モラトリアムな若者の永遠の”バイブル”として、いまなお読み継がれる珠玉の一冊だ。
 主人公ホールデンが、学校を退学になり、恩師や妹に会ったりと、あてどなく街をさまよう二日間の物語。彼は、一つのことに集中して努力したり、その結果をじっと待ったりができない性分だ。会話も、行動も、常に、動く、逃げる、嫌がる、の繰り返し。そんなホールデンのことを誰も理解できなくて、いったいどうしたいのかと聞く。すると彼はこう答える。ライ麦畑に何千人も子供がいて、ときどき崖から落ちそうになってる。僕はその子供をキャッチする人になりたいだけだ、と。
 ホールデンは、自分を追って家出してきた妹と動物園に行き、回転木馬に乗せてやる。ぐるぐる回るのにどこにもつかない回転木馬は、彼の陥った現実そのもののようだ……。
 著者は1919年、マンハッタン生まれ。父は裕福なユダヤ人だった。一九42年、第二次世界大戦に従軍し、ノルマンディー上陸作戦などを経験。捕虜になったゲシュタポの尋問を請け負うなど、ホロコーストを目の当たりにする。ドイツ降伏後、PTSDの治療を受けた。
 主人公ホールデンが、心ここにあらずの饒舌さで語り続けるのは、「危険だからここにはいられない」という、著者が戦場で被ったトラウマと、「死んでいった人を助けたい」という、胸が張り裂けるような思いだ。
 ライ麦畑とは、戦場、子供とは、兵士のことだったのだ。
 わたしはそのことを知ってから、久しぶりに再読した。すると、最後のセンテンスの意味がまったくちがって感じられ、膝から崩れ落ちる思いだった。
 本書は、本来語り得ぬはずの戦争体験を、青春小説に擬態して語った、一人の元兵士の渾身の咆呼なのだ。   (小説家)

 

そうか、この物語にはそういう意味があったんですか。久しぶりに思い出しました。

桜庭先生のこの文章を読んで、「最後のセンテンス」が気になって調べてみました。

 

...About all I know is, I sort of miss everybody I told about. Even old Stradlater and Ackley, for instance. I think I even miss that goddam Maurice. It's funny.Don't ever tell anybody anything. If you do, you start missing everybody.

…僕にとりあえずわかっているのは、ここで話したすべての人のことが今では懐かしく思い出されるってことくらいだね。たとえばストラドレイターやらアックリーやらでさえね。まったくの話、あのやくざなモーリスのやつでさえ懐かしく思えるくらいなんだ。わからないものだよね。だから君も他人にやたら打ち明け話なんかしない方がいいぜ。そんなことをしたらたぶん君だって、誰彼かまわず懐かしく思い出しちゃったりするだろうからさ。(村上春樹訳)

 

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

 

 

なるほど、確かに「まったくちがって」感じられます。これはサリンジャー自身の暗喩なんですね。 勉強になりました。そして、ぞっとしました。文学の恐ろしさを再認識したというか。ありがとうございます。

ただ、この作品の解説に関するわたしのインパクトで言えば、やはり村上春樹先生と柴田元幸先生の『翻訳夜話』の方が大きかったです。この作品のサリンジャーの「語り」が、あまりにも自分自身の精神分析・治療として有効に機能しすぎてしまったために、以後この作品から離れられなくなってしまった、といくだりです。

 

 

この作品がサリンジャーの戦争体験を踏まえていることもこの本では書かれていたと思うのですが、「語り」の有効性のインパクトが強すぎて、そっちの方は記憶に残っていませんでした。

この本を知ったのは、父の本棚に白水社野崎孝訳があったから。やはり多感な時期にこっそり読んだ記憶があります。もちろん、こどもたちにも勧めたいですね。でも、こういう本は「名作だぞ!」といって渡すのでなく、エロ本のようにこっそり読んでほしいような。

この作品がなければ、『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』もありませんでした。いや、少なくとも「アオイ君」というキャラクターは存在しなかったはずです。

あと、「ライ麦畑でつかまえて」は、サリンジャーの最後のセンテンスの暗喩からも離れるので「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の方が優れていると思いますが、長年野崎訳とあの独特の白水社のカバーに慣れ親しんだ人間からすると、どうしても『ライ麦畑でつかまえて』の方がしっくりくるんですよね。タイトルって大事です。

 

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)