漂えど、沈まず。

文化系税理士 佐藤 龍 のブログです

襤褸(ぼろ)に包まれてはいても、徳はやはり徳である。

また、おもしろいところを引いてきますね、鷲田先生。

この「襤褸」って読めますか?

わたしがこの熟語を知ったのは芥川龍之介だったと思います。

えーと、『羅生門』?

 

 

襤褸(ぼろ)に包まれてはいても、徳はやはり徳である。

デイヴィッド・ヒューム

朝日新聞「折々のことば」鷲田清一 2020年2月5日)     
 心の寛(ひろ)さや親切、温順や公平などの「徳」をそなえていても、人にはいろんな事情で社会の役に立てないこと、ときに人を深く思いやるがゆえに法に背くということがある。にもかかわらず彼を人として評価し信じることができるのは、そこに「善」に向かう構えを見て心地よくなるからだと、18世紀スコットランドの哲学者は言う。『人間本性論』第3巻(伊勢俊彦ほか訳)から。

 

 

大陸合理論と英国経験論で、それを統合したのがカント。哲学の教科書ではそのようにまとめられますが、ヒュームはこの経験論の代表的な哲学者。しばしば経験主義は「浅い」と批判されがちですが、いやいや、とりあえずの実用的な意味では十分効果があると思います。特にこのご時世においては、直感的に共感する人々が多いのも経験主義なのではないでしょうか。

 

そういえば、この合理論の果て。ドイツ観念論を、たしか立花隆氏は「深すぎて自家中毒する『お化け哲学体系』」と呼んでいたような気がします。ただ、この思想は百年後にルーマンを産んだわけで、思想というものは長いスパンで見ないとわかりませんね。