漂えど、沈まず。

文化系税理士 佐藤 龍 のブログです

落合陽一氏・古市憲寿氏の対談について(「文芸時評」磯崎憲一郎先生 朝日新聞2018年12月26日掲載)

今日はなんというか、ガッカリした記事をひとつだけ…。

 

 

書き手は小説家の磯崎憲一郎先生。

この連載、「文芸時評」なので文学関係でして、今回は作品よりも作家の姿勢、思想に焦点が当てられています。

大きく3部構成の今回の1部は笙野頼子先生の「返信を、待っていた」(群像1月号)について、「憤りと悔いと混乱、病気、束の間訪れる歓び、絶望と希望を人間は生きている、その人間の生活を脅かす権力と、作者は徹底して対峙する」とし、「「それは政治的信条である以前に、一人の芸術家としての生き様なのだ。その揺るぎなさに胸を打たれる。」とまとめます。

わたしがガッカリしたのは第2部。

落合陽一氏と古市憲寿氏の対談です。

だが対峙せねばならない相手は、意外な近くにもいるのかもしれない。「『平成』が終わり、『魔法元年』が始まる」と題された対談(文学界一月号)で落合陽一と古市憲寿は、間もなく終わる平成の次の時代について話し合っている。視覚や聴覚に障害がある場合でもテクノロジーによってハンディが超克されるような、「差異が民主化された世界」が実現するという予見が提示された後、話題は超高齢化社会社会保障制度の崩壊へと移る。古市は財務省の友人と細かく検討したところ、「お金がかかっているのは終末期医療、特に最後の一ケ月」であることが判明したので、「高齢者に『十年早く死んでくれ』と言うわけじゃなくて、『最後の一ケ月間の延命治療はやめませんか?』と提案すればいい」「順番を追って説明すれば大したことない話のはずなんだけど」といい、落合も「終末期医療の延命治療を保険適用外にするだけで話が終わるような気もするんですけどね」と応じた上で、「国がそう決めてしまえば実現できそうな気もするけれど。今の政権は強そうだし」とまで付け加える。この想像力の欠如! 余命一カ月と宣告された命を前にしたとき、更に生き延びてくれるかもしれない一%の可能性に賭けずにはいられないのが人間なのだという想像力と、加えて身体性の欠如に絶望する。そしてその当然の帰結として、対談後半で語られる二人の小説観も、「文体よりもプロットに惹かれる」と述べてしまっている通り、身体性を欠いた、単なる伝達手段以上のものではない。

 

この対談はこちら。

 

まさに「想像力の欠如」。この一言に尽きます。

磯崎先生の指摘する内容ももちろんですが、このような発言をしたらどうなるか、そのことに対する想像力の無さも心配になります。口が滑ってしまったというか、言葉が足りなかったのかもしれませんが、これにはガッカリしました。編集者の方も、公表する前にもう少し言葉を補うことはできなかったのでしょうか。「事なかれ主義」という意味ではなくて、これは読んで不快になる人もいると思いますよ。

この対談については議論に火がつき、ネット上でも軽い炎上になりました。この騒動にわたしが付け加えることはありません。磯崎先生の言葉を借りるなら、わたしの感想は「想像力の欠如」にガッカリ、です。

 

 

そして第3部。

 「悪と記念碑の問題」(新潮一月号)の中で東浩紀は、自らの仕事の起点にはじつは少年時代に読んだ、人間を材木のように番号で管理し興味半分で解剖し殺害した、関東軍による人体実験を暴いた森村誠一の『悪魔の飽食』の衝撃があると述べている。それは「人間から固有名を剝奪し、単なる『素材』として『処理』する、抽象化と数値化の暴力」であり「人間をかぎりなく残酷にもする」一方で、「抽象化と数値化」は「あらゆる知の源泉」であり、それ抜きには「国家も作れないし資本主義も運営できない」、「そこに厄介な逆説がある」としている。「政治について考えること」とは、その「逆説について考えること」であるとこのエッセイは締め括られているが、今の時代に、具体性・身体性の積み上げである芸術=小説を書き、読むこともまた、「抽象化と数値化」に抗する一つの実践となるのではないだろうか?

高校時代に、同じことを考えている友人がいました。彼はよく、「学問というものは区別し続ける営みだ。区別は差別につながる。だから、この世から差別はなくならないんだよ」と言っていました。

わたしはこの話を聞くたびに、「一理ある。でも、一理しか無いなあ」と思っていました。その当時はうまく反論できなかったので黙っていましたが、東浩紀氏についてのこのまとめを読んだときも同じ感想をいだきました。

いまのわたしなら、高校生の彼に、アドルノ=ホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』を引きながら、「暴走する合理的理性」の話をするでしょう。もちろん、東浩紀氏もそのことは重々承知の上で、読み物(文芸)としてエッセイをまとめたのだと思います。これを読んで思ったのは、アドルノの射程の広さ。

わたしのリタイア後の夢は、「時間を気にせずアドルノを読むこと」です。また少し、この夢が強くなりました。

うまくまとまりませんが、素朴なショック(ガッカリさ)から、アドルノへの思いが強くなった、ということの備忘です。

 

啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)

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否定弁証法

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