漂えど、沈まず。

文化系税理士 佐藤 龍 のブログです

旅先から絵葉書を送る、ということ。(四方田犬彦、『人、中年に到る』)

心に響いた言葉。

わたしは物心ついたころから絵葉書と郵便切手が好きだった。旅に出ると土産物屋で絵葉書を買い、かならず祖母に当てて(ママ)出したものだった。足が悪くて思うように旅行に出ることのできない彼女にとって、予告もなく突然に郵便箱に到来する異国の風景の映像は、それだけで大きな心の慰めだった。人は絵葉書の空欄にいくらでも自由にモノを書くことができるが、つまるところ絵葉書のメッセージとはきわめて単純なものである。Wish You Were Here. つまり、あなたがここにいてほしい、の一語に尽きる。わたしはある偶然から、ひどく遠いところにまで来てしまった(ほら、植物も、建物も、人々の衣装も、こんなに違うでしょ)。けれどもわたしは今でもあなたのことを決して忘れてはいない。いやむしろ、こんな異郷に足を赴けたのは(ママ)、あなたのことを思い出すためだったのだ。いかなる絵葉書の意味内容も、その映像や文面にもかかわらず、この完結にして謙虚な訴えを逸脱することはない。逆にいえば、絵葉書の表面に予め準備されている、観光主義的で派手派手しい映像とは、この謙虚さを無事に相手方に送り届けるための囮に過ぎないのだ。

 

人、中年に到る

人、中年に到る

 

敬愛する四方田犬彦先生の随筆より。

もっとも、四方田先生はこの本を「随筆」という言い方はせず、「ありのままの自分の思念について」、「自分自身について」、「他のいかなるものにも依拠することなく、自分の内側だけを見つめて」書いたものとしています。

 

わたしは、日々の生活や仕事に疲れたとき、歩んでいる方向を見失いそうになるとき、四方田先生の本を開きます。

旅の機会の少ないわたしも、四方田先生ほどではありませんが旅先から絵葉書を送ることに執着していた時期がありました。当時はこの自分の執着を、若い自意識の発露、とか礼儀作法程度としか考えていませんでしたが、今から考えればこういうことだったのかもしれません。あなたがここにいればいいのに。たしかに、そう思いながらどうでもいいことを綴ったものです。

四方田先生が折にふれて自身の愛読書であると述べる、マルクス・アウレリウスの『自省録』や、モンテーニュの『エセー』といった趣のあるこの単行本、最近はずっと鞄に入ってます。