四方田犬彦先生による、Nouvelle Vague(というより、ほとんどゴダール)の余波(Aftermath)について、前回の続き。
出典は30年前のこのムックです。
今回は、当時ゴダールが「撮る予定だった」『ヌーヴェル・ヴァーグ』という映画について。
そうか、言われてみればアラン・ドロンとヌーヴェル・ヴァーグって合わないなあ。「ヌーヴェル・ヴァーグが無視に無視を重ねてきた俳優」。
たしかにその通りなのかもしれません。今回は前回以上に固有名詞の洪水です。あ、JLGって、Jean Luc Godard のことですよ、念のため。
Ⅱ
ゴダールがアラン・ドロンを主演に『ヌーヴェル・ヴァーグ』というフィルムを撮るという噂を最近になって聞いて、わたしは腹を抱えんばかりに笑い出してしまった。本当かね、どうせまたニクソンを『リア王』に出したいといったときのように、JLG独特のハッタリだろう、という気持ちと、いや、JLGのことだから、ひょっとして本当に実現させてしまうかもしれない。という気持ちが、今のところ半々だ。七九年に『勝手に逃げろ(人生)』でカムバックして以来、JLGは聖母マリアを題材にしてカトリック派の怒りをかったり、みずから精神病院を出てきたばかりの瘋癲映画監督やムイシュキン殿下に扮したり、あい変わらず人を喰った活躍ぶりだが、今度はこともあろうに自分の出自を嘲弄の対象に選ぼうとは!
そもそも題名が『ヌーヴェル・ヴァーグ』だというのが、人を馬鹿にしている。もちろん撮るのが『恋のエチュード』のトリュフォーなどではなく、諧謔に長けたJLGなわけだから、内容が、一九五〇年代のパリの孤独で映画好きの青年たちを主人公とした、感傷的でノスタルジックな物語……などには間違ってもならないだろう。たぶん出来はそうした映画史的参照とは何の由縁もない荒唐無稽なフィルムに仕立てあがること間違いなしだ。しかし、それにしてもアラン・ドロン主演というのは、これはいったいどう解釈すればいいのだろうか。というのも、『太陽がいっぱい』でわが国でも神話的な人気を誇っているこのドロンこそ、ヌーヴェルーヴァーグの監督たちがこぞって無視に無視を重ねてきた映画人であるためである。
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ヌーヴェル・ヴァーグを代表する男優とは誰だったのだろうか。もちろんいろいろな考え方はあると思うが、ジャン・ピエール・レオがその嚆矢にあたることは、誰もが賛成するはずだ。『大人は判ってくれない』でいたいけな少年を演じたレオは、その後トリュフォーやゴダールのさまざまなフィルムで神経症で喜劇的な主役を演じ、七〇年代に入ってからもユスタシュの『ママと娼婦』で優れたキャラクターを創造した。ベルトルッチの『ラストタンゴ・イン・パリ』では、文字通りヌーヴェル・ヴァーグの映画的情熱の権化として、ムーヴィカメラを手に登場している(トリュフォーの死がレオの零落と軌を一にしていたことにも言及すべきだろうか)。レオの傍にジャン=ポール・ベルモンドとミシェル・ピコリを置けば、ヌーヴェル・ヴァーグの男優の大方の輪郭が描けることになる。とはいうものの、JLGも、トリュフォーも、シャブロールも、ロメールも、まあリヴェットは無理もないとして、あるいはよりメジャーのルルーシュですら、アラン・ドロンを使って一本の長編も撮りあげはしなかった。わずかに『世にも怪奇な物語』でルイ・マルがドロンとブリジット・バルドーの、最初で最後の共演をカメラに収めたことを例外と呼ぶべきだろうが、これもオムニバス短編のひとつであり、ドロンの比重はけっして重くはない。もちろんここで『太陽がいっぱい』におけるカメラマンのアンリ・ドカエの起用の挿話を思い出してもよいが、これはあくまで新世代擡頭を敏感に嗅ぎとった監督ルネ・クレマンの防御策、と考えておきたい。
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ヌーヴェル・ヴァーグがフィルム・ノワールの巨匠メルヴィルを師に仰ぎ、ロージーに深い敬意を抱いていたことを考えあわせるなら、こうしたドロンとの没交渉は一見奇妙なことのように思える。とりわけヌーヴェル・ヴァーグの〈世代の興奮〉がまさに成熟に達していた60年代後半から70年代にかけて、メルヴィルは『サムライ』と『仁義』で、ロージーは『暗殺者のメロディ』と『パリの灯は遠く』で、中年にさしかかったドロンのもっとも魅力的な肖像を描いているからである。ヌーヴェル・ヴァーグとアラン・ドロンという、戦後のフランス映画を代表する二つの神話が、互いにほとんど何の交渉もなく、30年以上にわたって同時代的に存在し続けたという事実は、きわめて興味深いことのように思える。これは、考えようによっては、ドロンにとって、ヌーヴェル・ヴァーグの即興的な演出や意味論的逸脱を許す話法が俳優として理解の範躊を越えていたことを示すとともに、ヌーヴェル・ヴァーグの側にも、ドロンの周囲に漂っている、甘美にして残酷なエロティシズムと、映画史的知性などといった名のもとには了解不能な、野卑な魅力を包括することができなかったことを如実に示している。ドロンを前にすれば、先に掲げた三人のヌーヴェル・ヴァーグの男優たちは(ベルモンドを筆頭に)、あまりに繊細で、子供じみていて、思索に耽けりすぎているといった印象を与える。ヌーヴェル・ヴァーグを正確に定義することは困難であり、また不可能であるかもしれないが、絶対にアラン・ドロンの登場しない映画、さらに拡げていえば、アラン・ドロン的な神話的感受性を排除したのちに成立した映画という枠の取り方は、あるいはフランス映画界にあって一世を風扉したこの歴史的現象の限界を語ってくれるかもしれない。少なくともJLGは、来たるべき新作の主演にあえてアラン・ドロンを! と宜言したとき、周到にもそれに気付いていたはずだ。いかなる神話分析学者よりも、神話崇拝者よりも深く、みずからの身体をもって苛酷に神話を生きた者のみが許される諧謔の悦びを、彼は語っていたのではないだろうか。
わたしがヌーヴェル・ヴァーグを直感するのは、そうした瞬間である。
なるほどなあ。
ヌーヴェル・ヴァーグとは、「絶対にアラン・ドロンの登場しない映画」、「アラン・ドロン的な神話的感受性を排除したのちに成立した映画」……! 四方田先生は映画史的な観点から書かれてますが、むしろ、一般的には政治的な傾向の問題と考えられているのではないでしょうか。アラン・ドロンは、「極右」といっていいほどのライト・ウィングらしいので。その意味で、極左なゴダールが彼を主演にする、というのは事件だったのでしょう。
さて、フィルム・ノワールの監督に敬意を表しながらも、その代表俳優には距離を保っている、というのは実に興味深い。ヌーヴェル・ヴァーグとほぼ同時代であるビバップにも、同じ傾向がうかがえるかもしれません。ビバッパーたちがエリントン、ベイシーに限りない敬意を表しながらも、安易にエリントン・ナンバーも取り上げることなく、エリントニアン、ベイシー・アイツとも共演しなかった、というような。
これは「父殺し」だとか、菊地成孔氏が繰り返し語っているように、「父と子は仲が悪いが、一世代挟んで、お爺ちゃんと孫は仲がいい」ということともつながるような気もします。
しかし今回の部分は固有名詞の洪水ですね。学生の頃は、信頼する研究者、批評家のこういう文章を読んだら、映画に限らず、片っ端からそこで挙げられている作品、論文を読んだものです。当時はその作品群にアクセスするのにも一苦労でしたが、いまはその気になれば容易にアクセス可能です。素晴らしいことです。
そして、「わたしがヌーヴェル・ヴァーグを直感するのは、そうした瞬間である。」という言葉。これは四方田先生のゴダールへの信仰告白ですね、美しい。
このテーマ、まだ続きます。
たぶん、あと2回くらい。