漂えど、沈まず。

文化系税理士 佐藤 龍 のブログです

「ヌーヴェル・ヴァーグ」の余波 -Aftermath(四方田犬彦先生)(1)

また発掘しました。

30年前の『ユリイカ』増刊号、特集「ヌーヴェル・ヴァーグ30年」。

 

 

ヌーヴェル・ヴァーグを集中して観るときに参考になるかもしれないから、と思って捨てずに取っておいた本ですが、社会人になってからそんな気持ちになったことは一度もなかったし、おそらくこれから死ぬまで無いでしょう。

というか、その時は他の参考になる本を探せばよいのです。というわけで処分しようとパラパラめくってみると、この号には、四方田犬彦先生が寄稿されていました。

そうか、これがあったから捨てずにいたのかもしれません。これだけでもサルベージしておきましょう。 少し長いので、数回にわたって引いておきます。

まずは「Ⅰ」、ゴダール気狂いピエロ』が四方田先生にとっていかに衝撃的な作品だったのか、そして、その映画史における影響についてです。 

 

ヌーヴェル・ヴァーグ その後

余波(Aftermath) 四方田犬彦

     I
 誰もがあの光景を記憶している。
 顔に真青なペンキを塗りつけた男が、黄色と赤のダイナマイトの太い帯を顔に巻きつけ、導火線に火をつける。自分のそんな死に方を呪う男の声とともに、巨大な爆発音が鳴り響き、黒煙が立ちのぼる。カメラは離れ小島の岩壁で生じたこの惨劇を視野に収めると、ただちに右ヘパンをはじめ、陽光に白々と輝やく水平線を移動する。しばらくの静寂。やがてヴォワオフで誰とも知らぬ男と女の声が聞こえてくる。何が見つかったの。永遠さ。太陽に融けこむ海……。

 

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 わたしが『気狂いピエロ』を観たのは1967年7月の新宿で、パリで封切られてからおよそ一年半が経ってからのことだった。ポスターを今でもよく憶えている。虹色に輝やくサングラスをかけ、渡哲也よろしくニヤニヤとした笑いを見せているジャン=ポール・ベルモンドの顔だ。だが、どうして渡哲也なのか。当時、日活アクション映画に夢中になっていたからだ。わたしは現在でも、ヌーヴェル・ヴァーグと日活映画を並行した同時代の現象と見なすことが重要だと思っている。中平康の『狂った果実』がいかに若きトリュフォーに刺激を与えたかについては、彼本人が短くないエッセイを書いているし、舛田利雄が渡哲也を起用して撮った『紅の流れ星』にはゴダールの「勝手にしやがれ」の影が色濃く投じられている。『紅の流れ星』は『気狂いビエロ』の東京上映の直後に封切られた。こうした事情があって、ベルモンドのアップのボスターに渡哲也のイメージが二重焼付けされてしまったのだろう。

 

 

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  その夏休みに、わたしは二回、このフィルムを観に劇場に通った。ラストシーンは文字通り圧倒的だった。まだ現実の地中海を訪れたこともなく、ランボーどころか、カミュの「幸福な死」という言葉さえ知らなかったが、死に至る絶望というものは、白や黒といった単調で圧倒的な色彩によってではなく、むしろ圧倒的な原色の氾濫のなかでこそ実現されるものなのだという考えは、十四歳の少年なりに理解できるような気がした。

 

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 あれ以来、スクリーンでいくたびベルモンドの爆死の残響につきあってきただろう。
 もっとも早く、しかももっとも直接的に『気狂いピエロ』へのオマージュを画面で表現したのは、わたしの知るかぎり、イタリアのタヴィアーニ兄弟であったと思う。彼らはゴダールの作品の二年後、わたしが『気狂いピエロ』を観た67年に撮った『破壊者たち』(引用者注:現在は『危険分子たち』の邦題の方が一般的かもしれません)のなかで、一人の登場人物が映画館の暗黒のなかであの有名な爆死の場面を眼のあたりにするさまを描いた。そこでは、後に『サン・ロレッツォの夜』や『カオス』で発揮されることになる、甘美にして流麗な色彩の跳梁はなく、ゴダールのフィルムは地のモノクロ画面にそっくりそのまま転写され、一種異様な雰囲気が作りあげられていた。いったい『気狂いピエロ』からいっさいの原色が消滅してしまうというグロテスクな光景を、人は想像することができるだろうか。タヴィアーニ兄弟の手法は暴力的であり、けっして優雅な映画的引用のあり方とは思えない。しかしそこには、たった今自分が観てきたばかりの映像の圧倒的な感動を、あらゆる混乱を恐れずに、直截的に語り伝えておきたいのだという、性急にして真摯な欲動が満ちあふれていた。わたしは『破壊者たち』を、それが撮られてから二十年ほどして観た。『気狂いピエロ』の最初の衝撃はすでに遠いものとなっていたが、タヴィアーニ兄弟によって引用されたラストの一分あまりの画面の強度は、わたしという主体を一瞬不安にし、予期しなかった異化効果の彼方へと押しやった。

 

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 前田陽一が『進め! ジャガーズ・敵前上陸』を監督したのは、その翌年の68年である。このおそろしくテンポの速いスラプスティックのなかでも、やはり『気狂いピエロ』のラストシーンが換骨奪胎され、きわめて軽妙なバロディに仕立てあげられている。前田には、タヴィアーニ兄弟のように、自分のフィルムの自己同一性がそれゆえに危機に陥るかもしれないにもかかわらず、まったく異なった文脈をもつ別のフィルムの圧倒的な現前ぶりを身をもって引受けようという姿勢はない。前田と、脚本を担当した小林信彦はいとも気楽に、ベルモンドの爆死の光景を一編のギャグに作り換えた。もとより問われているのはギャグの新奇さであって、眼差しが一度でも『気狂いピエロ』を通過してしまったことから生じる悲痛さの代価といったものからは遠い。しかしそれは、『進め! ジャガーズ』は圧倒的に面白い喜劇映画であることと、かならずしも矛盾しない。そこには断崖の縁で器用に軀を停止してみようと思ったコメディアンが、はからずも落下してしまい、なかば自暴自棄な気持も手伝って、勢いに乗って荒唐無稽な演技を見せてしまった、といった過激さが充満している。そしてしかも今日ほとんど語られることがない点で残念なこのフィルムは、ジャンルという枠組によって正しく擁護されている、というべきであろう。前田はある格子のもとにゴダールを受け取り、その格子を通して、安定した秩序のもとに遊戯的な言及を行なっている。

 

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 14歳のわたしにもし16ミリカメラが与えられていたとしたら、新宿のATGを訪れ、タヴィアーニ兄弟と同じことをしただろうか。したかもしれないし、しなかったかもしれない。しかし、わたしのみならず、『気狂いピエロ』をはじめて観た少なからぬ中学生が、同じ衝動に突き動かされていたことは、たぶん事実である、大森一樹は確実にそうだったし、作家の矢作俊彦にしてもそうだろう。そしてわたしたちはあれ以来、いくたびとなく、ベルモンドの爆死場面に似たシーンと、個人映画のなかで対面してきた。思い出してみよう。60年代から70年代にかけて、あらゆる優れた個人映画は海辺での放下のシーンで幕を閉じなければいけない、というのが、わたしの周囲の誰もが抱いている暗黙の了解だった。『大人は判ってくれない』と『気狂いピエロ』の影響は文字通り圧倒的だった。閉じられた都会の密室と、聞かれた海岸。おかしさに彩られた悲しみの個人映画。誰が撮ったっていい。誰かがそれを撮っていればいいのだ。

 

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 最後にわたしがあの爆死の光景を観たのは、にっかつがロッポニカと社名を変えた88年の短い期間にとられた、何本かのフィルムの一本においてだった。荒井晴彦が脚本を書き、神代辰巳が監督した『噛む女』のことだ。そこでは、アダルトヴィデオ会社を経営する永島敏行が、旧友のTVマン平田満が担当する番組に出演するという挿話が語られている。二人は同じ高校の映画クラブに所属していて、番組の主眼は、彼らの共通の友人で現在では著名な男優をスタジオに招き、気軽な思い出話を引出すことにある。互いに立場はひどく隔ってしまったものの、ともに中年にさしかかろうとする男たちがカメラの前で談笑に耽っている間、傍のモニターには、彼らが二十年ほど前に試作したと思しき8ミリ作品がさりげなく映し出されてゆく。われわれが眼にするのは、稚拙ながらもあのベルモンドの爆死の場面を模倣せんと、一人の高校生が顔に絵具を塗り、ダイナマイトを首に巻きつけてゆく光景だ。男たちは、かつてこの光景を撮影したはずであるにもかかわらず、特に言及するわけでもなく、モニター画面に対していっこうに無関心であるように、どこかしら疲弊した表情で昔話を続けている。

 

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 タヴィアーニ兄弟の、まるで世界がここから開示されるといった新鮮な驚愕に満ちた感動によって開始されたあの爆死の光景の残像は、二十二年後に神代辰巳が示したノスタルジアヘの憎悪愛によって論理的に終止符を閉じる。この一点において『噛む女』は充分に悲痛な作品だ。残余は、澁澤龍彦が晩年にシュルレアリスムについて語った表現を借りるならば、研究者による「死体解剖」であり、回帰と消滅をせわしげに繰り返す消費文化のなかでの、トレンディなるものの一項にすぎない。だが、かつてかくも「処女にして、生気に満ち、美しく」もあったヌーヴェル・ヴァーグですらノスタルジアの限差しのもとに眺めてしまわざるをえないわれわれの映画的状況には、これは相当に残酷なものがあるのではないだろうか。今日、ヌーヴェル・ヴァーグは完全にレトロ趣味の圧政下にある。トリュフォーの主題体系について饒舌を重ねることも、ゴダールの変転の物語の跡を辿って文章を綴ることも、優雅な審美学の対象とはなっても、その安全な範躊を逸脱することができない。端的にいえば、〈批評〉を構成しない。『噛む女』でかつての幼なげな自作8ミリに無関心を示した永島敏行は、その間の事情を、いかなるゴダール・マニアよりもより冷静に受け取めているように思える。そして、この作品によって、神代辰巳が日活映画に二度目の終止符を打ったことを、わたしはいまだにいささか複雑な気持で受けとめている。日活はかつてヌーヴェル・ヴァーグとつねに平行線を描いて、わたしの映画的欲望を喚起してきたはずではなかっただろうか。

 

「今日、ヌーヴェル・ヴァーグは完全にレトロ趣味の圧政下にある。」なるほど、ヌーヴェル・ヴァーグは、30年前に既にこのように受け取られていたのですね。20年前に私が学生だった頃は、状況はもっと進み、一部にヌーヴェル・ヴァーグを崇拝する映画ファンはいたものの、一般には一つの映画史的な運動・出来事として、教養主義的に「学習」した覚えがあります。白状してしまうと、『勝手にしやがれ』を初めて観たときはジャンプカットの意味がよくわからなかったし(「あれ? 今の編集ミス?」)、『気狂いピエロ』はなんかギクシャクした映画だな~、と感じました(いまなら当時の私わたしに、そのギクシャク感というか、映像とか音の強烈な違和感がカッコいいんだよ、とエラソーに言うでしょう)。

 

そんなわたしでも、ラストは圧倒的でした。ただ、それは四方田先生がここで書かれているような「死に至る絶望というものは、白や黒といった単調で圧倒的な色彩によってではなく、むしろ圧倒的な原色の氾濫のなかでこそ実現されるものなのだという考え」ではなく、初めはそのプロットの唐突さに唖然とし、そして同時に、呟かれる言葉の美しさに、そして投げ出された映像の美しさに、です。

後からこれがランボーの引用によるものだと知り、そしてこれはベルモントが望んだわけではなく、映画の全編に氾濫する色彩の飽和によって、必然的な帰結としてベルモントは「この作品自体に殺された」と理解しました。素晴らしすぎます。カッコいいですよね、やっぱり。

 

あ、そうだ、「誰が撮ったっていい。誰かがそれを撮っていればいいのだ。 」という感じもよくわかりますね。これ、ひっそりとアルバムに1曲だけ紛れ込んだYMOカバーを発見したときの感覚と同じでしょう。代弁者になりたい、という欲よりも、「圧倒的なもの」の衝撃を語り合いたい、共有したいという謙虚さ。他人との距離が一気に縮まるのは、そういう感情がきっかけになることも少なくありません。

 

四方田先生の文章はまだまだ続きます。

 

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タヴィアーニ兄弟