漂えど、沈まず。

文化系税理士 佐藤 龍 のブログです

まだまだ続く「呉座勇一 × 百田直樹『日本国紀』」。「文化」は「政治」が安定してこそ隆盛する。

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先日、百田直樹氏の『日本国紀』に対して、歴史学者の呉座勇一先生が朝日新聞紙上で、連載記事2週にわたって繰り広げられている仮借なき批判について書きました。

 

日本国紀

日本国紀

 

 

しかし、呉座先生の批判はこれで収まりませんでした。なんとその後の12/18,12/25の連載2週にわたって、百田氏への批判を続けました。

 

 

(呉座勇一の歴史家雑記)足利義政のイメージは本当か
朝日新聞 2018年12/18)

  日本人の歴史観歴史学界での議論ではなく、有名作家による歴史本によって形成されてきた。ゆえに百田尚樹『日本国紀』(幻冬舎)を歴史学の立場から検証することが必要だ。同書は足利義政を、政治意欲がなく「趣味の世界」に生きた無責任な将軍で、「応仁の乱に疲れ政治の世界から逃避するために」東山山荘(現在の銀閣寺)を造ったと評価する。こういう義政像は戦前以来のもので、世間に根強く残っている。
 しかし拙著『応仁の乱』(中公新書)でも論じたように、右の見方は正しくない。義政が自らの理想の芸術を実現するには莫大な金が必要だった。東山山荘の造営にあたって、臨時課税(人夫・資材の徴発を含む)によって工事費を捻出しようとした。

 

応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

 


 この増税には反発が強く、滞納の統出により建設工事は遅滞した。けれども、ここで注目すべきは、将軍職を息子の義尚に譲った後も、義政が依然として徴税を行えたという事実だ。
 たしかに義政は、大名だちが自分の命令を聞かないことに嫌気がさし、しばしば「もう政治には関わらない」と宣言した。だが実際には、義政は死ぬまで政務に関わり続けた。政界から引退し完全に権力を手放してしまったら、集金ができなくなるからである。
 政治権力者と文化・芸術の保護者という二つの立場は、切り離すことができないのだ。  (歴史学者

 

(呉座勇一の歴史家雑記)誤解生む「日本文化」の絶賛
朝日新聞 2018年12/25)

 先週・先々週と、足利義満足利義政に関する誤解を正した。傲岸不遜義満、無能無気力な義政という戯画化された人物像も戦前の歴史観に淵源する。
 戦前においては、後醍醐天皇を裏切って室町幕府を開いた足利尊氏は逆賊として非難された。結果、逆賊の子孫である義満・義政も否定的に評価されたのだ。
 室町時代の政治を肯定できない戦前の歴史教育は、代わりに文化を賛美した。義政の時代の東山文化は、和室・和食・茶の湯・生け花など日本の生活文化の源流として特筆されたのだ。
 こうした傾向は平安時代への評価にも見られる。摂関政治を「世の中の嫌な事件や現実には日を瞑り」「権力争いに明け暮れていた」と批判する百田尚樹氏の『日本国紀』も、この時代の国風文化については「真に日本らしい傑出した文化」と絶賛する。
 右の評価には2つの問題がある。第一に「政治がダメでも文化は花開く」という誤解が生じる。実際には政治が安定してこそ文化は隆盛する。摂関政治の確立が『源氏物語』を生んだのだ。室町文化の絶頂も、義政の時代ではなく、政治的安定期である義教(義政の父)の時代に迎えた。
 第二に、中国の影響を脱した純粋な日本文化があったという誤解を生む。紫式部は「白氏文集」など漢籍を愛読し「源氏物語」に多く引用している。日本文化と中国文化を対立的に見るべきではないのだ。(歴史学者

 後者記事にある、百田氏への2つの問題。そういえば、四方田先生は政治が不安定な時期にこそ、その国の映画界は隆盛を極める、といったことをどこかで書いてらしたことを思い出しました。文脈が少し異なるかもしれませんが、政治と文化は切り離せない問題である、ということなのでしょう。

さて、呉座先生による『日本国紀』批判はまだまだ収まりそうにありません。4週連続したところで、年をまたぐこととなりました。この批判、2019年も続くのでしょうか? ここまで呉座先生が批判を続けられているのを読むと、逆に『日本国紀』を読みたくなってきてしまいますね。

 

日本国紀

日本国紀