四方田犬彦先生による、30年前のヌーヴェル・ヴァーグについてのエッセイ、最後です。
総括的な内容です。
ともあれ時代の興奮は去った。
トリュフォーは、一見して伝統的なフランス映画の世界に回帰し、やがて帰らぬ世界の住人となった。寡作で知られたユスタシュも死んだ。ロメールは軽妙にしてウィッティなJJ風コントの映画化に終始し、リヴェットは悪無限の反復のなかにどこまでも足を掬われている。シャブロールは安定したペースで着実に、罪深い大人たちの物証を演出しているし、レネは七転八倒の実験遊戯をあいかわらず続けている。マルはレトロ映画の大立物となり、ヴァディムは昔ほどの派手派手しさこそなくなったが、あいかわらず女遊びに忙しいようだ。そしてゴダールはといえば、十年一昔のように、ドタ靴を穿きながら、世界映画史の舞台のうえでアクロバットを演じている。
みんなそれぞれに年をとった。
まわりを見てごらんよ。
この三十年間、世界の映画批評はヌーヴェル・ヴァーグと「カイエ」誌が作りあげたパラディグマに則って、彼らが敷いたレールのうえで執筆され、論じられ、喧伝されてきた。新人監督がデビューするたびごとに、彼(女)がこの「新しい者たちの伝統」にどのくらい適っているか、映画史的記憶とやらの党中央の方針にどのくらい忠実であるかを基準として、擁護と支持の基本路線が定められた。ロマン・グピール、ジャン=ジャック・ペネックス、レオス・カラックス……。パリでは若手のシネアストが処女作を発表すると、まずヌーヴェル・ヴァーグとの血縁関係が取り沙汰された。映画における「ゴダールの再来」という表現は、演劇における「ユゴーの『エルナニ』の再来」という表現と同じくらい、今日では陳腐の極に達したクリシェだ。わたしは『汚れた血』をアンファンティスムの充溢した、優れたフィルムだと信じたが、それを撮ったカラックスがゴダールの名を引合いに出されて批評家たちから高く評価されているさまを見て、この監督に同情した。彼はいつまでヌーヴェル・ヴァーグという巨大な神話的物語に庇護されつつ、映画を撮り続けなければならないのか。南仏にポン=ヌフの等身大のセットを築きつつあるこの異常児が、ヌーヴェル・ヴァーグの既成の神話をやすやすと裏切ろうとしているさまを、わたしは痛快に思う。ヌーヴォー・ロマンの後にフランスでは小説が衰退したという言説が不幸なステレオタイプであるように、ヌーヴェル・ヴァーグの後にフランス映画は低迷を続けているという言説もまたステレオタイプなのだ。そしてこのステレオタイプを暗然のうちに根拠付けているのは、ヌーヴェル・ヴァーグの真の継承者であり、回帰にふさわしい監督が地上のどこかに存在しているはずだという、これを強迫観念と化した思いこみなのである。
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波は来たり、波は去る。わたしは映画史の意義を一方では認めながらも、今日ではなかば抑圧装置と化しつつあるこの巨大な物語にわざわざ参照を求めなければ、今しがた眼にしたばかりの一本のフィルムに判断を下すことができないといった批評家を不憫に思うし、またその朗々とした文脈のなかで新しい空席をあてがわれる当のフィルムを不幸に思う。今日、ヌーヴェル・ヴァーグの精神を継承しているという表現のもとに、ある特定の作品が批評家たちの手で支持され、評価されるとき、そこで語られているのは、たいがいの場合、すでに確固として存在している感受性の確認であり、それを脇から固めている証拠--映画史的引用の提示と照合なのだ。批評家として、わたしはこうした死体解剖めいた作業にこれ以上与したいとは思わない。思うに、滝田洋二郎や金子修介、あるいは中原俊といった今日の日本でもっとも刺激的な映画を撮っているシネアストたちが、カラックスやベネックスよりもより自在で、あっけらかんと幸福なふうに見えるのは、彼らが継承するにせよ、反撥するにせよ対決すべき映画史的記憶、相続すべき財産から解放された場所に立って映画を撮り出した、という事実にも本来的にかかわっているはずだ。先行する物語にどこまでも知悉しないでいることの気楽さ。それは、いうまでもないが、新しい波が生じようとするいかなる瞬間にも必要とされていた条件であった。ヌーヴェル・ヴァーグに真の回帰が可能であるとすれば、それはヌーヴェル・ヴァーグをめぐるあらゆる記憶が廃絶され、灰燼と化してしまったのちの出来事であり、そのとき映画史と呼ばれる支配的言説は、セリーヌの言葉を借りるならば、「後の世のお伽話」と化していることだろう。勝手にしやがれ。
(よもたいぬひこ比較文化)
……四方田先生、この文章、最後の「勝手にしやがれ」のために書いたでしょ?
それくらい決まってますよ。
30年後の読者から、いくつか補足を。
レオス・カラックスは、おそろしく寡作ながら、その後も問題作を発表してますよ。『ポンヌフの恋人』はシャレオツな学生の古典となりつつありますし、わたしが学生の頃にも、濡れ場が話題となった作品を発表し、他にもこの10年間で2本撮ってます。
滝田洋二郎監督といえば、最近亡くなった内田裕也アニキのアレのブレイク後、なんと2000年代にも『おくりびと』で、アニキの義息子のモックンを主演に、商業的に大ブレイクしました。
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金子修介監督の『ガメラ』シリーズの勢いは止まらず、中原俊監督も映画を撮り続けています。『櫻の園』は、原作も映画も素晴らしいです。
そうそう、本文中の「JJ風コント」って、もちろんこっちの「JJ」ですよね?
一瞬、こっちのJJかと思っちゃいましたよ。
今回の発掘により、ヌーヴェル・ヴァーグのことを思い出し、その特異性を考えることができました。 四方田先生、ありがとうございます。
さて、四方田先生が繰り返し言及された「爆死」の影響ですが、こんなバンドもあります。
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日本のバンド、「勝手にしやがれ」のこの作品も、もちろん『気狂いピエロ』によって「同じ衝動に突き動かされた」作品です。というか、このバンド、名前からしてゴダールだし。
次回は税理士関係の記事に戻ります。