新聞の一面でアドルノを読めるとは思っていませんでした。
鷲田先生、チョイスのセンス抜群です。
生き残るチャンスを持っているのは、むき出しの庇護されていないものだけである。
テオドール・W・アドルノ
伝統なるものは体よく祀(まつ)り上げられることで逆に損なわれると、ドイツの哲学者は言う。伝統は、「反発」される時、つまりそれがめざしながら果たしえなかった課題を、後世の人たちが批判的に取り上げ、それに別のかたちで挑む時に、もっとも活性的である。遺産としての顕彰は、ときに伝統がもつポテンシャルを削(そ)いでしまう。『不協和音』(三光長治・高辻知義訳)から。 (鷲田清一)
原文はこれ。
Chance zu überleben hat einzig das Ungeschirmte, Offene.
Dissonanzen. Einleitung in die Musiksoziologie: Gesammelte Schriften in 20 Baenden, Band 14
- 作者:Theodor W. Adorno
- 出版社/メーカー: Suhrkamp Verlag AG
- 発売日: 2003/04/01
- メディア: ペーパーバック
これはまた深い言葉です。
「深い」という言葉は安易に使いがちで、下手をすると非常に「浅い」表現となり、わたしはあまり好きな表現ではありません。ですが、アドルノの箴言、アフォリズムに関しては、これほどピッタリな言葉はないのです。
鷲田先生に引かれたこの言葉は、芸術の世界で考えてみるとよくわかるのではないでしょうか。「これは伝統的な作品だから、わからないのはオマエの方が修行が足りない。もっと勉強してから考えてみろ」。……そう評価されていた作品が、今見直してみると風化してしまってみるに堪えない。そんなことはよくある話です。わたしが好きなジャズの話をすると、ハードバップ至上主義な方々が持ち上げられた50年代、60年代のバップ作品の数々は、わたしの予想通り、年々風化されているように感じます。「なんだ、ハードバップって、結局、ブラウン・ローチ・クインテットと、マイルスのマラソンセッションだけ聴いておけば十分じゃない!」 先日、話をした若いジャズ愛好家はそう言っていました。
アドルノのこの言葉は、庇護されていないことから生じる雑草魂や、庇護されていなくても顕在するその作品の強度のことを指しているのでしょう。そして、そういう作品は、庇護されることで逆にその強度を失ってしまう、と。
今日の記事を書きながら考えたのは、カフカとエリントン。
カフカは庇護されなくても死後にその作品が発掘され、生き残り続けた作家であり、エリントンは逆に伝統に庇護されることで忘れされつつある音楽家です。
不遇な状況によって歴史に埋没した人々を発掘するのは後世の研究家の責務です。しかし、これだけ情報に溢れたわれわれが新たに持つべき視点は、伝統の威光によって守られ、「裸の王様」化した作品の、その作品それ自体の強度を取り戻すことなのではないでしょうか。ですが、そう考えると、エリントンは生前から伝統的に評価され続けていた芸術家であり、「庇護され続けた」ために現状の生き残りが難しいのだ、とも言えるわけで…。
アドルノの言葉から、こんなことを考えていました。
そういえば、ニーチェの作品もカフカの作品と同じような評価の歴史となりましたね。