漂えど、沈まず。

文化系税理士 佐藤 龍 のブログです

小説を読む、ということ。『卵をめぐる祖父の戦争』(デイヴィッド・ベニオフ)

卵をめぐる祖父の戦争 (ハヤカワ文庫NV)
 

 

友人に薦められて、久しぶりに小説を読みました。

……いやあ、参ったなあ。ステイ・ホームでノックアウト。

専門書、ビジネス書、その他仕事上で幾多の文章に触れているつもりですが、文芸、小説は全然読む機会がありません。

村上春樹の小説、たしか『ねじまき鳥クロニクル』だったと思いますが、小説というものは、若い頃に読むものであって、社会人が読む本のジャンルとしては称賛されるべきものではない、と上司に諭されるくだりがありました。法律事務所に勤めるこの主人公は、猫と妻の失踪を皮切りに、小説の世界、「井戸」の世界に自ら深く潜っていくことになるわけで、そう考えるとこの小説は法学部に対する文学部の復権とも読めるのかも。そういえば、妻の兄の「ワタヤ・ノボル」も経済学の人間でした。

小説を読まないと、なんというか、人間性がやせ細っていくというような気がします。それが言い過ぎなら、ボキャブラリーが貧しくなっていく、というのは間違いがない。ボキャブラリーが貧しい、語彙が少ないということは、その人にはそれだけ世界が狭く、少なく写っているということで、結果、人生を楽しむ機会が少なくなっている、といえるでしょう。

 

いや、でもそんなことはどうでもいいんですよ。

こういう、どうでもいいことを連連と書いてしまうほど、この小説は楽しかった、ということなんです。

できることならこの小説の核心についてズバッと端的に書いて次に進みたいのだけど、その核心について考えて結論を出すことにためらってしまう。だって、結論を出したらこの小説から離れることになってしまうじゃないですか。

もう少し、この小説とつきあいたい。

ダラダラした関係で構わないからもう少しこの小説と一緒にいたいんです。だから、核心とは関係のない、どうでもいいことを書いてしまうことになる。というか、核心以外のことしか話題にできないんです。

ああ、ロラン・バルトの「愛するものについては、人はうまく語れない」という言葉はこのことか。この心理をうまく表現してるなあ。

 

やっぱり、小説も読まないといけませんね。

いやいや、「読まないといけない」なんて義務的な表現をする時点でもはや文学でないし……って、もういいですね、こういうの。

 

卵をめぐる祖父の戦争 (ハヤカワ文庫NV)
 

 

えーと、上に書いたとおり、この小説について結論を出すつもりはありません。

この小説は人気作ですし、たくさんの方がたくさんのことを書かれていることでしょう。

わたしは、いくつか、勉強になった箇所、わたしに響いたところ、職場を含む日常で使えそうな部分を引いておきます。

 

聞かせる音楽も報道するニュースもないときには、ラジオ局はメトロノームの音を流していたんだ。いつまでも続くカチ、カチという音が市(まち)はまだ整復されていない、ファシストはまだ門の外だと教えてくれていた。ラジオから聞こえてくるメトロノームの音はいわばビーテル(レニングラード)の鼓動で、ドイツ軍には一度としてそれを止めることができなかった。

 

父親や父親の作品について、おおっぴらに話すのはなんだかとても変な感じがした。話している言葉自体安全でない気がした。当局に聞かれるのを恐れなければならない犯罪の告白でもしているみたいだった。出版局の影響力などまるで及ばないここでも、わしは捕まることを恐れ、カラマツのあいだに潜んでいるスパイを恐れた。母親がその場にいたら、きっと目でわしを黙らせていたことだろう。とはいえ、父親のことを話せるというのはそれ自体、気分のいいものだった。詩人その人は過去形でも、詩のほうは現在形で語れることが嬉しかった。

 

ある意味、わしは底抜けのまぬけだ。これは卑下でもなんでもない。わしは平均的な人間より知性は高いと思っている。いや、もちろん、知性というものは速度計のようなひとつの計器で測るのではなく、回転速度計、走行距離計、高度計、その他もろもろすべてひっくるめて測らないといけないのだろうが。

 

コーリャはそこまで言うと、空咳をしてから演説口調に切り変えて続けた。

「”才能とは熱狂的な女王のようなものだ。彼女は美しい。彼女とともにいると、まわりの人間はあなたに気づき、あなたを見つめる。女王は突然あなたの部屋のドアをノックして現れもすれば、しばらくの間消えてしまうこともある。妻、子供、友人、あなたのまわりの存在などおかまいなしに。彼女とともにいると、なによりスリリングな夜を過ごすことができる。しかし、いつかはあなたのまえから消え、それから何年も経ったある夜、あなたは彼女を見つけることになる。自分より若い男の腕に抱かれた彼女を。あなたのことなど知らないふりをする彼女を”」

 

「ぼくはアルハンゲリスクには行ったことがない。とても寒いところなんだろうね」

 彼女の返事がない沈黙の中、わしは自分がものすごくつまらないにんげんである可能性について考えてみた。こんなつまらないことを口にできるのはつまらない人間以外に誰がいる? とびきり頭のいい豚ーー納屋の前庭の天才ーーが一生をけてロシア語を学び、ついにぺらぺらになったとする。その結果、初めて聞くことばがわしのことばだったら、その豚はなんて無駄な年月を過ごしてきたんだろうと思うだろう。そんな無駄なことなんぞしないで、泥の中でごろごろ寝転がって、ほかの頭の悪い豚たちと残飯を食べていたほうがよほどましだった、と。

 

どれも素晴らしい。

でも、一番好きなのは、この小説の序文ともネタバレともいえる、祖父と作者の以下のやりとりです。

これ、「献辞」というか、エピグラフに使いたいくらいです。

 

祖父が話しおえると、私はさまざまな詳細ーー名前、場所、特定の日の天候ーーについて尋ねた。祖父はそんな質問にもしばらくはつきあってくれたが、最後には身を乗り出し、テープレコーダーのストップボタンを押して言った。

「ずっと昔の話だ。何を着てたかなんて覚えとらんよ。太陽が出てたかどうかも」

「ぼくとしては正確を期したいからね」

「それは無理だ」

「これはお祖父ちゃんの物語だ。いい加減にしたくない」

「デイヴィッドーー」

「まだふたつほどよくわからないことがあるんだけどーー」

「デイヴィッド」と祖父は言った。「お前は作家だろうが。わからないところはつくりゃいい」

 

ベニオフはあの『25時』の作者でもあります。

犬の散歩をするエドワート・ノートン

観終わって、監督がスパイク・リーであることを再度確認するくらいスパイク・リーらしくないフィルムでしたが、あれも面白い映画でしたね。メタレベルの映画というか。

投獄前25時間のエドワード・ノートンは、明らかに「9.11直後のアメリカ」のメタファーなわけで、どのようにも解釈できる映画でした。

ベニオフ、長い付き合いになりそうです。

紹介してくれた友人に感謝。

 

25時(字幕版)

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25時 (新潮文庫)