やっと読みました、カート・ヴォネガット・ジュニア。
カート・ヴォネガット・ジュニアは、これも長いこと積読状態だった作家。
何度か、何冊か手を付けるのだけど、そのたびに挫折してしまったのだが、この夏、勢いに任せて読みました。
結論から言うと、考え方、思想としては興味深いところがあったけど、物語、小説・物語、文芸としてはいまひとつ乗り切れなかった、というところです。
そういえば、この本は爆笑問題の太田光さんが大好きで(氏の事務所の名前である「タイタン」はこの小説からとられている)、それが日本でのこの小説の知名度を上げたともいわれている。
文庫に文章を寄せているので、少し引いておこう。
過去と、現在と、未来が、同時に存在していて、それが永遠に繰り返される。
この小説はそういった時間のとらえ方で書かれている。これはヴォネガットの得意な(原文ママ。「特異な」ではないのか?)時間のとらえ方で、他の作品にも反映している。
とは言っても、そう考えにくかったら、無理やりそう考えることはない。放っておいても小説というものは、読んでいるときは連なった時間として順を追って読んでいるが、読み終わって過去の記憶になった時から、徐々にまとまった一つのイメージとして、同時にすべての物語を思い出すようになる。小説全体が、一つの思い出になる。
一見わかりにくいこのヴォネガットの時間のとらえ方は、実は誰もが日常的にやっている時間のとらえ方だと私は思っている。
あ、これ、岡田斗司夫氏がYouTubeで映画『メッセージ』を解説するときに話してた考え方だ。さかのぼれば、ニーチェの永遠回帰なんかにも通ずると思うけど、SFに広まっているこの考え方、ヴォネガットのこの本が元ネタなのかな、と。
この小説のテーマは、人間に選択権はあるのだろうか? ということだ。我々は誰の影響も受けない自分自身の「意思」によって生きることが出来るのだろうか。
「UWTB」という言葉が出てくる。ザ・ユニヴァーサル・ウィル・ツー・ビカムの略で、「そうなろうとする万有意思」という意味だ。この小説の中でとても重要な言葉で、勇気づけられる言葉だ。
同時に、すべての法則から解放されて自由になるということは、あらゆる繋がりを断ち切って、この宇宙にたった一つの点として存在するということで、それははたして幸福なのだろうか、と思うこともある。
このあたりが、太田さんが強く衝撃を受けたところで、同時にSF界に広く影響を与えたところなのかな、と思う。特に、これが軽い文体で書かれたところが大きいのではないだろうか。村上春樹氏が影響を受けたのも、その文体、語り口であるような。
でも、逆にわたしはこの文体、語り方についていけなかった。翻訳のせいにはしたくないけど、英語で読むとまた違うのかもしれない。
などなど。
とりあえず、積読状態だったこの本を読めてよかった。
最後にひとつだけ。
原題の「The Sirens of Titan」だけど、「Sirens」を「妖女」とするのはmisleadingだと思いますよ。西洋思想において、Siren、つまりセイレーンは重要な概念・モチーフです。「女性」「誘惑」「理性との対立(感覚的欲望)」「乗り越えるべき障害」・・・などなど。セイレーンはサイレンの語源なわけで、このタイトルは実に多くのことを意味しているわけです。
なので、こういう意味が響いている訳がいいんじゃないかな、と。
例えば、単純に『タイタンのセイレーン』。
これなら、わたしがこの小説に対して抱く好奇心も違ったと思います。ちょっと読んでみようかな、とか。あ、でも一般的には興味は低くなるかな。だから、『タイタンの妖女(セイレーン)』とルビを振るとか(学生時代、アホな友人が、注目を集めるなら、『タイタンの幼女』とすればいいのに! なんて言ってたことを思い出しました。いや、それは一部の変態の興味しか引かないよ、と答えてやりましたが)。
というような、小説自体の強度というより、この小説をとりまく文化的なもろもろを再確認する読書体験でした。
これはこれで悪くない。
ああ、あと、これは原書を読みたいな、と思ったとき、不思議と大量の英語を読みたくなりました。少し脱線しますが、人間の欲望は限りがないな、と実感した瞬間があり・・・と、その話はまた別の機会に。